お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

きょう、また

2008年01月03日 | 仏教
 大晦日、紅白歌合戦が始まった頃、ご門徒のT氏が亡くなられたと電話あり。
 家族一同お酒が入っていたので、住職はタクシーで枕経へ往復。

 ご遺族は、元旦は外され、昨夜、通夜、そして、きょうがご葬儀でした。

 腰、お腹に鈍痛はあるものの、痛みのピークは越えた私は、三日参りのお茶だしだけ務めることができました。

 長年お世話になってきた方が、またお浄土へ。淋しくなりました。

 死ということを考えてみた時、あるのは、三人称、二人称の死であって、一人称・自分の死というものは、認識できないのですよね。(確かそういう意味のことを池田晶子さんが書かれていましたっけ?)

 例えば末期癌とかで、自分の死を覚悟することはあっても、それは、あくまで覚悟であって、自分の死というものは、自分にとっては、ないのだ。突然であれば、なおさら、自分の死はないのですよね。いつの間にか死んでいるのだ と思います。(まだ、死んだことがないので断言はできませんが・・・)

 私も後頭部動脈が細いと言われているから、いつバタリと倒れて死ぬかもしれません。いや、事故死もあり得る。
 でも、喘息だ、腰痛だと言いつつ、家族が持てあますほど長生きするかもしれません。

 自分で認識できない「私の死」を、いつ、どのような形で家族、知人に与えても、私は仏となり、智慧と慈悲のはたらきになって、後の者の心に はたらき、導く存在にならせてもらうのだ と思うと 何とも有り難く、安心して生きて、死んで往けるのであります。

 ごめんなさい、正月に相応しくない話題でしたが、お寺に住んで、いつも、親しい方々の死に直面している私にとって、素直な「本日の思い」でございました。南無阿弥陀仏

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする