お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

遊行

2009年09月30日 | 仏教
五木寛之氏の「遊行の門」徳間書店 

 仏教とは直接関係ありませんが、
古代インドには、人生を4つの時期に分ける思想があったそうです。

 「学生期」(がくしょうき):青少年が心身鍛える、学びの時期

 「家住期」(かじゅうき):社会で、家庭で、中心となって活躍する時期

 「林住期」(りんじゅうき):仕事、家庭から自由になり、自分を見つめる時期

 五木氏は「林住期」についても、本を出されていましたね。
 「林住期」こそは人生の黄金期なのだ    と。

そして、4番目が

 「遊行期」(ゆぎょうき)

 五木氏は
 p16 「遊行期」とは人生の最後のしめくくりである死への道行きであるとともに、幼い子供の心に還っていくなつかしい季節でもある

と書かれてます。  

 そうだなあ・・・と、しみじみ拝読しつつも、私はちょっと違うことを感じています。(これは、私の勝手なイメージですが) 

  親鸞聖人の聖教 「正信偈」(真宗勤行集 p21)に

  遊煩悩林現神通   入生死薗示応化 
 
(意訳では) 生死の薗にかえりきて  まよえる人を救うなり 

 仏教語は難しいのですが、「生死」(しょうじ)は、「迷い」の意味です。

 「遊」は、自由自在であること。
 
 ここで親鸞聖人が使われている「遊」は、仏が、煩悩に迷う人々を救うため、浄土から還ってくること、自由に現れること です。 

 つまり、私が思ったのは、「遊行」とは、「布教」「衆生を覚りに導くはたらき」のことでは、ないのか   と。

 「遊行期」・・・それは、この世に生きている限定された時期のことでなく、
自分が亡くなった後(生死をこえて)、
後を導く「はたらき」となる、人生最終目標の時期のこと ではないのかと。


 
 
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せんでいい

2009年09月28日 | 雑感
 次女から聞いて、笑った話

 佐賀の職場で、Aさん(九州外の出身者)が、先輩から、仕事の指示で

「せんでいい

と言われた。

 「せんでいい」とは、する必要ない、「しなくていい」という意味の九州弁(北部九州?)なのですが・・・

 北部九州?では、

 「せ」の発音が、「しぇ」に、聞こえる。

 特に年配の方に、その傾向が強く、例えば
「○○先生」を ○○センセイ ではなく、○○シェンシェイと、発音される。

 その発音「せ」→「しぇ」が微妙に影響したのか、怒ってなくても、言葉の荒い九州弁のせいか、

 先輩の言葉「せんでいい」が、
Aさんには、「しんでいい」(死んでいい)と聞こえ・・・
 
「何も、そこまで言わなくても・・・」と、ショックを受けたとのことです。
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死んでからでは遅すぎる その2

2009年09月26日 | 仏教
 浄土真宗って

 「念仏すれば、死んでから、いいところ(極楽)に行ける。
生きている間は、我慢して、生きよう、 という教えで、
生きている人間の 苦悩に対して、何の解決にもならない

と、誤解されている方が、案外多いようです。

 浄土真宗では、凡夫(フツーの人間)は、死ぬまで煩悩から離れられない
 だから、この身のまま、悟りをひらくなんて、とんでもない 
できるわけない
 「悟り」は、仏さまだけが到達された境地 である・・・

と考えます。
 
 じゃあ、どうやったら、悟りにいたるの やはり、絶望して生きるだけなの

 いえいえ、だから、そういう「凡夫」のために
 「全てのものを救いたい」と、誓い、願われたのが

 阿弥陀如来

 私が、悟りに至るには、阿弥陀如来にお任せするしか、救われようがない

 「念仏」は、阿弥陀如来に心を合わせる 感謝の言葉。

 完全な悟りを得て「仏」と完成されるのは、この身が無くなって(死んでから)ではあるけれど、

 阿弥陀さまに相談しながらの人生だから・・・

 阿弥陀如来の慈悲に心を合わせて生きるってことは、実に安心で、あたたかい・・・
 
 決して、死んでからの「救い」ではなく、生きている間の「救い」なのですよ~

 死んで初めて、阿弥陀さまの前に来ても、遅すぎる。
 どうぞ、生きているうちに、「本願」に出逢って、安心を得てください 

 
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死んでからでは遅すぎる

2009年09月25日 | 仏教
 先日「ZEN(禅)」という、曹洞宗を開かれた道元さんの一生を綴った映画をレンタルDVDで観ました。

 まさに「禅」・・・・「教外別伝・不立文字」(悟りの境地は、経典の文字のみで表せない。各自が体得するものである)
 ただ黙々と座禅する・・・
 ほとんど無音の・・・シーンと静まりかえった いい映画でした。
 ただ、あまりに静かなので・・・まじめに観ているつもりで・・・眠たくなる・・・

 只管打座・・・我執を離れるために、心身脱落、無心に座る

 私のような惰眠を貪る煩悩盛んな人間は、「只管打座」(しかんたざ) ならぬ 「弛緩ただ」  すみません、寒いオヤジギャグで・・・

 この映画でちょっと気になったセリフ 

 幼少の道元さんに対して、母君が、こういう主旨のことを仰る

 「今、巷では『念仏すれば、往生できる』という教えが流行っているそうだが、
死んで浄土に往っても遅かろう。
そなたは、この世で救われる道を学んで、人々を救ってはくれまいか

 はは~ん、念仏の教えは、死後の救いだけで、この世の救いは、何~も無い と誤解されているのかな

つづく・・・

 

 
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彼岸中日に

2009年09月24日 | 雑感
 シルバーウイーク最終日の昨日は、秋分の日=秋の彼岸中日(お彼岸1週間の真ん中の日)
 昨日の佐賀は、時々パラパラ小雨模様。
暑くもなく、かと言って涼しくもなく・・・

 ちょうど、彼岸中日に合わせたように「彼岸花」が開花しました

 法専寺では、彼岸中日法要をお勤め。約80名くらいの方々にお参りいただきました。連休のご多用の中、法要の席についていただいた、ご門徒の皆様に厚く御礼申し上げます。

 昨日は、島根県のご出身で、佐賀にもゆかりのある(佐賀の鹿島中学や佐賀師範学校で教鞭をとられていた)方 で、数々の著書(「青色青光」「才市さんとその歌」等)を出されている
 
 川上清吉 師(明治29年~昭和34年往生)

について、住職がお話させていただきました。

 仏教讃歌に「芬陀利華」(ふんだりけ)という私の大好きな美しい曲がありますが・・・

 その作詞者が川上清吉さん、(作曲は山田耕筰さん)

 「芬陀利華」とは、蓮の花のことです。歌詞をご紹介します。

  よしあし《善悪》の 間(はざま)を まよい
 より処(ど)なき 凡夫(ただびと)すらや
 みほとけの 誓いをきけば

 おおいなる みむねをうけて
 現世(うつしよ)の にごりえに咲く
 かぐわしき 芬陀利華(しらはちす)かも

 世のひとの うちにすぐれて
 上もなき 人とたたえん
 みほとけの かくこそは告(の)れ 


 親鸞聖人も「正信偈」に著されているように 

 泥水(煩悩にまみれた汚れた世間)から、スーっとのびて、
 泥水一滴の汚れもつけず、真っ白な美しい花を開花する

 仏さまの教えに出逢った人 を 蓮の花に例えて、仏さまが、誉め称えてくださっていますよ という 歌であります。

 この歌は、「憶念」という仏教讃歌CD(本願寺出版社)に収録されています。 

 

 
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夫の実家のお墓に入りたくない

2009年09月22日 | 仏教
 今朝、スーパーモーニングという番組を見ていたら・・・
 アンケートで
 「夫の実家のお墓に入りたくない」という妻が 70%
と言っていました。

 自分の親、先祖なら愛しいが、夫の親は、鬱陶しい
 あんな憎たらしい人たちと同じお墓に入るなんて、真っ平ゴメン って気持でしょうか

 それとも、「私は、私らしい、私好みの(こだわりの)新築のお墓に入りたい」
ってことでしょうか

 繰り返し、拙ブログでご紹介していますが、
仏の教えに従って考えてみれば、

 お墓は、唯一残った遺骨を通して、後に残った者が、故人を偲ぶ「縁」であって、
 死者にとっての「終の棲家」ではありません

 私たちは、死後、生前と同じ感情をいだいた迷える「霊魂」となって、お墓にじ~と宿っているわけではありません

 仏(真理・あるがままの真如)に心を合わせて生きる私たちは、
亡くなると同時に
そんな醜い悪感情も執着(自分の思いにとらわれる心)も離れた浄土へ迎えられ、美しい(清浄な)さとりの仏に誕生するのです。

 どこのお墓に埋葬されようと、埋葬されまいと何の心配もありません。

 「自分が」「自分が」という「自分中心に世界を見る」視点が、「宇宙から自分を見る」視点に大きく転換される・・・
 限りない智慧と慈悲のはたらきの「仏」と成るのですから

 自分の愛する者は大切だが、自分にとって不都合な人を憎む という気持も、もはや無い・・・
 生前の何のわだかまりも・・・何の怨念もなくなります。

 仏教を有り難く聞かせて頂いている私は
「夫の実家のお墓に入りたくない」と言って、
死後まで、我執のまま・・・迷いそうな人生を送りたくありません

 
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敬老の日に

2009年09月21日 | 雑感
 お昼のニュースを見ていた夫が、ポツリと言った。
 「きょうは、敬老の日で、佐賀市の温水プールが高齢者に無料開放らしいが、それが60才以上らしい・・・」
 「え~、それなら貴方も行ったら タダよ。タダ

 還暦まで、まだ、少々、間がある私は、からかうように言ったが、
夫は、60才以上が「高齢者」ってことに、いささかショックを受けたらしい。自分ではまだ若いつもりだから・・・

 振り返って、私自身、自分が年齢を重ねていることを忘れている・・・颯爽と歩いているつもりで、町のウインドウに映った自分の姿にがっかりする。

 それは、83才の母も同じらしく

 孫の結婚披露宴DVDに映った自分を見て
「このバアサンは、誰かと思ったら、自分だった・・・」と言い

 今年、孫の結婚と義弟の仏事で、2回、東京往復した折りに

 「2回とも、電車で席を譲っていただいて、申し訳なかった。私はそんなに年寄りに見えるのだろうか
と、言っていた。

 母は、どこから見ても立派な老婆なんだけど・・・本人曰く、
「頭が軽い分、足取りも軽い」と、足腰は大丈夫。

 まあ、見かけはともかく、気持ちだけは若々しく、元気でいてくれるのが、娘としては、何より有り難いことです。

 
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彼岸の入り前夜

2009年09月20日 | 雑感
 きょうは彼岸の入り
 朝晩はひんやりですが、日中は30℃越えの佐賀です。

 さて、昨夜は、U組J寺さんで開催された「お寺でコンサート」へ。

 声楽家のS先生によるユーモアあふれる仏教讃歌のご指導で、本堂に集った皆さん共に、お腹から声を出して(大きな声で)歌ったり・・・(周囲の方にはご迷惑だったでしようが、私はストレス解消になりました

 童謡を、楽しんだり・・・

 S先生の美しいソプラノの声・・・オペラの曲をうっとり聞かせていただいたり・・・

 とても楽しいひとときを過ごさせていただきました。

 その折り、初めて知ったのですが、童謡の「どんぐりころころ」は水戸黄門の曲に合わせて(替え歌)で、ちょうど歌えるのですよ~

 帰宅して、家族に得意気に話したら、
 「そんなの小学生の時から知っていたよ」
と、次女に言われてしまった・・・

 J寺住職さんによると、「恩徳讃」(如来大悲の恩徳は~で始まる)も水戸黄門の曲で歌うことが可能だそうです。
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我執

2009年09月18日 | 仏教
 「我執」とは、自分の思いに執着することです。

 先日(15日夜)ご覧になられた方も多いと思いますが、
「緊急 世界サミット たけしジャパン」というテレビ番組が非常に面白かった

 あれを見ていたら、たけしさんも言っておられましたが、「戦争はなくならないなあ」と思いましたね。

 自国に誇りを持つことは結構なことですが
 他国を上から目線で見ているのが、ありありですし・・・

 自国、自分の価値観が「常識」で「正しい」と思いこんで、その自分の価値観に外れた他の価値観を決して認めず、攻撃する・・・

 番組内のやりとりを見ていて、あらためて、仏教っていいなあ 有り難いなあ~ と、思いました。

 仏教では
 「全ての いのち は 平等」 と説かれます。

 知能が高い人間、鯨?が、高級な「いのち」なのではなく、牛も豚も鶏も、魚も・・・植物も・・・みんな尊い「いのち」である と。

 その「いのち」を人間の都合で(生きるために食物として)殺して、頂いているという事実。 
 それに対して、「知能の高い人間が食べるのだから、当たり前」と思うのでなく、「申し訳ない、有り難い」という気持をもつこと。

 お互い、自分の価値観、思いに執着するから、争いがおこる。

 それぞれ違っていて当然なのだから、お互いの違いを認め合って、尊重できれば、いいのですが・・・

 自分の愛する者は、大切に思うが、それ以外の者の苦しみには無関心であること。
  なかなか「世界は 皆 同朋」と思えないところが、悲しいことです。

 「我執」から離れるところに(仏さまの心に私の心を合わせる・帰依する)ところに、世界平和があるのでしょう。

 人を責める、人ごとではなく、自分の「我執」の愚かさ・危うさに気づく・・・

 世の中安穏なれ 仏法広まれ   親鸞聖人の言葉です。

 

 

 

 

 
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佐賀教区子どもの集い

2009年09月17日 | 行事・案内
 毎年、佐賀教区で開かれている
 キッズサンガ 「ほとけの子の集い」 のご紹介です

 日 時:10月31日(土)13:30~17:00まで

 場 所:龍谷中学高校体育館(佐賀市水ヶ江)

 参加費:無料

 上記時間内に自由に出入りできます。
 案内状に「マイ皿、マイはしを持ってきてください」と書いてあります。

 幼児、小学生のお子さんと保護者さん
お皿とおはしは、各自準備して、遊びに行ってくださいね


 ちなみに「ほとけの子ども」という意味ですが・・・

 最近は「子どもを作る」という言い方をされますが

 子どもは親が「作る」というより、「授かる」もの

 親が作った私物(私の子ども)というより、親のもとに仏さまから頂いた、尊いあずかり者(いのち) という 受け取り方 であります。

 実に不思議な「縁」で・・・あり得ない確率で・・・その両親のもとに誕生した「いのち」 
 奇跡の子・・・まさに「ほとけの子ども」でしょう
 

 
  
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