お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

精進料理の意味を考える その3

2008年01月22日 | 仏教
 さて、浄土真宗において「精進料理」をどう考えるか? 

 禅宗のように修行としての「精進料理」の位置づけと異なり、真宗教学において、精進料理をどう考えるのか という決まった作法、取り決めはありません。(たぶん、ないと思います)

 親鸞聖人は、どうなさっただろうか
 
 おそらく、出された料理は、野菜であろうと、肉・魚であろうと、こだわりなく手を合わせ、有り難く食されたのでは、ないだろうか・・・

 第一、精進料理だの、肉・魚の料理だの言えるのは、食材の選択肢が豊富であるからであって、飢饉に苦しむ生活ならば、命をつなぐために、口にする食材に悠長なことを言ってられないはずです。

 じゃあ、真宗門徒にとって、精進料理は、どうでもいいのか    
 
 いや、私は、どうでもいいとは、思わない

 お寺に住む者、または、篤信門徒にとって、豊かな時代になっても、仏事・法要時の食事は、精進料理が当たり前とされてきた。

 それは、現在、飽食の日本だからこそ、より大切なことなのではないのか
 
 当たり前のように、毎日、生き物の命を食べ散らかしている私たちだからこそ、仏事の時くらい、謙虚に、心から手を合わせたい。

 仏事の精進料理、家族の往生を縁としての精進料理・・・その意味を考え、伝えることは、子どもの教育のためにも大切なことではないでしょうか 

 決して「精進(料理)しなくちゃならん」「こうあるべき」と人を非難、強制することではなく、自然に、自分がそうしたいから、精進(料理)する。日頃忘れがちな感謝を思い出すために精進する。

 それが、真宗の者にとっての「精進料理」の意味なのでは・・・

以上が、私の精進料理についての「思い」であります。
コメント (2)
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