お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

直方の火災

2011年02月28日 | 雑感
 今朝知ったのですが、
 昨夜遅く(11時半くらい)
実家のすぐ裏の飲食店6軒が全焼する火事があり、大騒動だったらしい。
 母も兄も眠っていて、義姉が気づいて起こしてくれたとのこと。
 気づいた時には、すぐ裏で火柱が上がっていたそうで、消防車が駆けつけるまで、ずいぶん時間がかかったように感じたようです。
 もちろん皆、寝間着のまま避難。
 兄は「ウチも延焼するとあきらめていた」とのことですが、
ブロック塀で防げたのか、かろうじて実家は焼けずに済んだそうです。

 母と義姉(母の付き添いで)は檀家寺のE寺さんに避難させていただき、一晩お世話になったとのこと。

 消防のホースが家に入ったので、廊下が水浸しになったのと、窓ガラスにヒビが入ったのと、物干し場のバルコニーに焼け落ちたお宅のトタンなどが散乱している以外は、生活するのに支障はないそうで安心しましたが
全焼のお宅、店舗の皆様は、本当にお気の毒です。

 日曜日(休業日)の深夜火災。原因はまだ不明だそうです。
 けが人が出なかったのが幸いでした。
 
 つい先日は、直方の友達のお兄様(兄の友達)が急逝なさった知らせに驚いたばかり・・・
 本当に、いつ何が起こるかわかりません。
 
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自力本願 その3

2011年02月28日 | 仏教
 組の若婦人の集いは、若手住職、若院さんたち「にわかぼーず一座」の寸劇により、大盛り上がりのうちに修了いたしました。
 ご参加いただいた、若手女性の皆様、ありがとうございました。
 関係各位、本当にお疲れ様でございました。

 さて、先日の記事「自力本願 その2」では、
仏教で言う「他力本願」の意味(世間で言う人任せの意味ではなく、阿弥陀如来の本願力のこと
を未熟な私なりに紹介させていただいきました。

 本願は、阿弥陀如来が私を悟らせたいと願われていることですので、それは他力(阿弥陀さまのほうからの はたらき)でありまして、

 自力本願という言葉は、矛盾した造語です。

 他力の仏教の立場から言う「自力」とは、人に頼らす努力する、頑張る と言う意味ではなく、
自分の理性(我執)をあてにしている、つまり、自分の小賢しい頭で、仏さまを理解しようとする、自分の「はからい」 のことを言います。

 煩悩まみれの私のような人間は、自力(自己執着)の危うさを実感し、他力(仏さま)に心をゆだねて、おかげさま と、仕合わせに生きてまいりたいと存じます。
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組若婦人(女性)の集い 直前

2011年02月25日 | 行事・案内
 27日(日)の組若婦人(女性)の集い(法専寺にて)の準備が進んでいます。

 長年、マンネリ化していた日程が今回は変わり

 勤行は、いつも会所の住職が調声を務め、一同で「しんじんのうた」をおつとめしていたのが、
今回は、住職抜き。
 坊守たちで「重誓偈」の音楽法要にチャレンジすることに・・・

ということで、ここ数回、コーラス練習日に坊守たちだけ居残りして練習。

 で、一昨日は、若手住職、寺族による作法指導の寸劇(臨終編)の練習が法専寺で行われました。
 なかなか熱の入った名(迷?)演技で、若手女性の皆さんも楽しんでくださること間違いなしです。

 さてさて、音楽法要も作法指導の寸劇も本番は上手にできるでしょうか
ドキドキ・・・

 
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自力本願? その2

2011年02月23日 | 仏教
 仏教で言う「他力」とは

「私を、自然科学上も、無数の縁の上も、ささえ生かしてくださっているあらゆる力、はたらき。その目には見えない無量の(はかりしれない)「おかげさま」(それを阿弥陀如来と称す)

 その「おかげさま」に気づき、心豊かに 生きよ 
と「私」に向けた阿弥陀如来の願いを「本願」と言います。

 「他力本願」とは、世間で使う、他人まかせ、他人の力を当てにする という意味ではなく

阿弥陀如来
「私」をさとらせたい
自我に縛られた不自由な感性を  自由な、豊かな感性 に転じさせたい
と願い、はたらいてくださっている意味です。
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佐賀教区仏教壮年大会

2011年02月22日 | 行事・案内
 仏教壮年会(ご門徒の壮年男性の会)、略して仏壮(ぶっそう)。

 20日 日曜日、浄土真宗本願寺派 第21回佐賀教区仏教壮年大会 が嬉野で開催され、法専寺からも仏教壮年会の会員4名と住職が参加しました。(私は物騒ですが、仏壮ではないので不参加です)

 参加なさったM氏は、「講師の上山大峻先生のご法話が勉強になった~

 S氏は、「藤津西組の混声コーラスによる仏教讃歌に感動した~

との感想でございました。

 担当ブロック、関係各位に厚く御礼申し上げます。
 
 
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自力本願?

2011年02月20日 | 仏教
 住職が買ってきた雑誌「一個人」3月号は「保存版特集 仏陀の言葉」
 その後半に「仏陀の言葉を伝える現代の智者たち」で数名の方のお話が掲載されているのですが

 美輪明宏さんが

「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀さま、いい子にしていますからどうぞ天国に連れて行ってください」という考え方で、
「南無阿弥陀仏」は、ヨチヨチ歩きの赤ちゃんのように全部他動的に全てを任せている状態
一方、「南無妙法蓮華経」とは、自分で小学校、中学校・・・大学院と進み卒業論文を書くような
自力本願の考え方。

「阿弥陀様に手を引かれて天国の門をくぐるのか、それとも自らの足で門の前まで行き、「開門!」と言って、扉を開けてもらって自分の足で歩いていくのか、後者こそ、まさに自力本願の教えです。

と書かれておられまして・・・

「南無阿弥陀仏」の教えをひどく誤解しておられる(ご存じない)のに、
「仏陀の言葉を伝える智者」として、堂々と紙面で論じておられるのに正直驚きました。

 
そもそも「自力本願」なんて言葉は、仏教に、ありませんから

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阿弥陀如来は神様なのか? その3

2011年02月18日 | 仏教
 「さとり ったって、何のことかもわからないし、
第一、悟りたいとも思わないし
自分は正義だと思っているし
自分の物の見方が偏っていて、そういう心によって、自他共に傷つけているという自覚症状もないし

そういう 困ったさん(私)を 悟りに向かわせるのは、容易なことではありません。

 とにかく、「このまま放っておいたら、大変なことになりますよ」
と、気づかせたいと、仏は願われる・・・

そこで、仏の慈悲の はたらきかけ として

私に「さとり」って境地があるんだよ 
「さとり」の境地は、あるがままに感受し、無量の(量り知れない)縁を感知し
多くの恵みとしあわせを喜べる 心の世界なんだよ

と知らしめるために、方便の姿として(本当は「慈悲のはたらき」なのですから、絵や言葉では表現できないのですが、それでは、私に接点がないので)、私のために現れてくださったのが、阿弥陀如来であり、「南無阿弥陀仏」なのです。

 だから、「私」を棚上げして、
「私」の感受性(こころ)を抜きにして

阿弥陀如来に、自分欲の延長にある願かけをするのは、真宗の信心では、ないのです。
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2月15日涅槃会

2011年02月17日 | 仏教
 2月15日はお釈迦様の祥月命日である涅槃会

 お釈迦様は、29才でシャカ族の王子の地位も家族も全て捨て、出家。
 6年間苦行。
 35才の時、苦行を止め、村娘スジャータの乳粥(ちちがゆ:米をミルクで似たもの)の供養を受け
ピッパラという木(後に菩提樹と呼ばれる木)の下で瞑想し、やがて悟り(菩提)をひらかれた。

 だから、35才の時から、悟りの境地に入っておられるのですが、
先日2月4日の記事でご紹介したように、生身を持つがゆえ、身体の苦痛は残ります。
 もちろん、悟りをひらいておられるのですから、お釈迦様は、その身体の苦痛を「不幸だ」とは感受されません。

 そして、いよいよ人間(生身をもつ存在)としての死を迎えられる。

入滅・・・完全な涅槃(ねはん:悟り)に入られた。


 
 

 
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法専寺ニュース

2011年02月15日 | 行事・案内
 先日、山門前の新駐車場に新しく外灯を設置していただきました。

山門と東側の駐車場には以前から外灯があり、暗くなると自動点灯していますが、
南側の新駐車場は、暗いままでしたので、山門前の橋も明るく照らされ、クリークに落ち込む心配もなくなりました。

 そして、今朝から、合同墓の建設作業(基礎工事)が始まりました。
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阿弥陀如来は神様なのか? その2

2011年02月15日 | 仏教
 阿弥陀如来は、キリスト教の神様と違います。
 
 仏教は、さとりを得た「仏」の教えであり、私たち一人ひとりが「仏」に成ること目指す教えです。

 「仏」とは、自分がさとり(仏の智慧)を得て、自己完結、自己満足するのではなく
まだ、さとりに至らない者を何とか さとりに導きたい
真理(自分の思いにとらわれない、あるがまま)に目覚めさせたい と、私に はたらき(仏の慈悲)かけてくださる存在です。

 お釈迦様が覚られた「さとり」を
「法」とか「真如」とか「真理」とか・・・
いろいろな言葉で言い換えますが、本当は、俗世間の言葉では表現できない境地です。

 そして、「さとり」は、自己中心の感受性しか持たない私には感知できない境地です。
そんな私に「さとり」を感知させるのは、大変なことです。



 
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