お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

精進料理の意味を考える

2008年01月20日 | 仏教
 昨日は不在の住職に代わり、午前中、2軒のお参りに
 夕方からは、組内の坊守(ぼうもり:お寺の奥さん)研修会で川久保のH寺さんへ。
 組相談員の三溝のH寺ご住職さんをご講師として研修会。

 昨日は、テーマとして、「浄土真宗の者にとって、精進料理をどう考えるか?」

 現在の食文化としての「精進料理」は、禅宗によるところが大きい。
 
 堂々と肉食妻帯・・・つまり、家庭を持ち、魚、肉も口にされた親鸞聖人であるなら、わが宗派において精進料理をどう考えるのか? という問いを投げかけてくださいました。

 特別、結論を出して、「こうあるべき」「これが正解」というようなものでなく、各寺坊守が、自由に感想なり、意見なりを述べ、共に考えるという研修会。

 これは、お寺に生まれ育たれた方(もしくは、仏教の篤信家庭に育たれた方)と、私のように名ばかりの真宗門徒(全く何~にもわかっちゃいない)の家からお寺に嫁いだ者 の 受け取り方が異なって、当然なんだけど、おもしろい

 お寺、もしくは昔ながらの浄土真宗篤信家庭では、先日ご紹介したように、御正忌報恩講の期間中は、精進料理にする。
 また、家族の祥月命日や、家族が亡くなった時は、四十九日間、精進料理で過ごす。それを当然、当たり前だと受けとっている。

 私はお寺に嫁に来て、初めて、「そういうものなんだ・・・」とその習慣を素直に受け入れた。

 それでも、嫁いで数年で、義母が亡くなった時、義父が四十九日間、精進料理にすると言うのを、まだ若い私は、「トホホ・・・なんちゅう面倒くさいことを」(精進料理は食材が限られる上、手がかかる)と思ったものでした。

 一方、普通(「普通」という言い方もおかしいですが、「一応仏教徒?だけれど、仏教に疎い」家庭の方が圧倒的多数だと思うので・・・)の家庭では、宗祖の命日はおろか、身内の祥月命日も、あるいは身内が亡くなっても・・・精進料理にしようなんて考えは、頭にすら浮かばない・・・私の実家がまさにそうなんですよ。

 続く・・・

 

 

 

  

 
コメント (3)
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