お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

馬の耳に念仏

2007年04月30日 | 雑感
 私の母校は宗門関係の大学でしたので、1年次と3年次(でしたっけ?)に「仏教学」が必修科目としてありました。
 今にして思えば、宗門の超一流・勧学さんが教授として、講義をされておられたわけです。
 
 ところが、まさか将来お寺に嫁ぐことになるなど、夢にも思わない私は、ボーと講義を聴いていました。まさに「馬の耳に念仏」(そう言えば私、午年です)
 仏教なんて、人ごとで、何の興味もなく、必修単位取得のために、仕方なくテストを受け、ちんぷんかんぷんの回答をしていました。

 いやあ、ホント勿体ない   今だったら、大喜びで、目を輝かせて、講義を受けているところなんですが・・・

 同じ大学在学の次女が、今年の正月明け、仏教学の後期試験の件で、私に質問してきましたが、30年前の私状態・・・寺の娘なのに、仏教学教授の講義内容が全くわかっていなくて・・・

 仏教学や真宗学専攻でもない20才そこそこの若者に、勧学の先生方の講義は難しすぎる。「もったいな~い

 しかし、これは母娘しておバカな私共だけのことでしょうか?
 
 先日、本願寺新報の方から拙著の件で電話取材を受けた時も「○○大学のご出身なのなら、仏教に全く疎かったと書いておられるのは、ちょっと違うのではありませんか?」と、尋ねられました。
 でも、私は偽りなく、本当にチンプンカンプンでした。右の耳から聞いて左に抜けていく状態・・・

 同窓生の皆様、あの当時、仏教講義をありがたく理解されておられましたか?
 
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降誕会&門徒総会

2007年04月29日 | 行事・案内
 本日の降誕会と門徒総会は、穏やかな晴天に恵まれました。
 連休中のご多用の中を、ご門徒85名のご出席をいただきました。役員さん方には早朝から受付、駐車場整理等・・・お世話をおかけしました。
 役員さんはじめ、ご出席いただきました皆様に厚く御礼申し上げます。

 「法専寺の歌」もご披露できました。男性陣はお酒で盛り上がっておられたので、女性陣で歌の練習をしました。
 今はお浄土の有縁の方々も「法専寺の歌」を喜んでくださっていることと思います。
 こうして、和やかに降誕会の祝賀会が終わりました。

 ただ、私、本堂を走り回っている途中、ガクッと腰を痛めてしまいました。腰をひねったようです。いたたたた・・・
 座っている分は、何ともないのですが、歩くと痛みます。ほとんどの方がお帰りになられた後だったので、どなたも気づかれなかったのが幸いでした。
 今、そろそろと原始人のような歩行をしています。もともと姿勢の悪い私ですから、大して見た目は変わりませんが・・・
 明日は何もないので休養します
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葬儀のしきたり 通夜・葬儀編

2007年04月28日 | 仏教
 葬儀のしきたりは、仏教でも各宗派、また、それぞれの地方の慣習で異なってきます。わからないことは、お寺にお尋ねになられることをおすすめします。
 葬儀屋さんは営業のことを考えてのアドバイスをされるでしょうし、親戚もそれぞれ自分の宗派、地方の慣習でのアドバイスをされるでしょう。
 親戚、ご近所が異なることを助言され、混乱する時は、お寺に聞いて「お寺がこう言った」と、はっきり言われたほうがスッキリします。

 いずれにしても、浄土真宗では、阿弥陀如来の本願力によって、故人は亡くなると同時に、悟りの世界である浄土に往生し(往って生まれ)成仏(仏と成られた)と味わいます。

 したがって、浄土真宗の葬儀は、故人を浄土へ送るため、つまり、故人のために「してあげる」儀式ではなく、故人と深い縁あった私たちが、故人を偲び、感謝すると同時に、また、お互い仏となって遇う世界(浄土)を味わう「私1人ひとりの」法会です。

 お経や念仏は、故人が成仏するための「まじない」では、ありません。
 「お経」は、私をさとりに導こうとされる仏さまの説法。
 「南無阿弥陀」の念仏は、阿弥陀さまとの交信の言葉・感謝の言葉です。

  それだけは、取り違えないでお通夜・葬儀にご参詣ください。
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葬儀のしきたり 臨終編

2007年04月27日 | 仏教
 私もいずれ、遅かれ早かれ、後の人にお世話になりますので、娘への遺言兼ねて、葬儀のしきたりをご紹介。
 
 遺体は顔を白布でおおい、両手を胸の上で組ませて念珠をもたせる
 服装は何でもかまいません
 納棺するまでは、北枕(頭を北に向けて安置する)

北枕・・・お釈迦様が入滅(亡くなられた)の折、頭を北に、顔を西向けておられた ということに、ちなんでいます。が、家の間取り、仏壇の位置などの都合で、北枕にこだわる必要はありません。

 浄土真宗の仏事は、ご本尊を中心につとめます。
 なので、お仏壇のないお宅は、ご本尊(阿弥陀如来の絵像、または「南無阿弥陀仏」の名号)と三具足(みつぐそく・右にロウソク立て、左に青木または、白の菊の花立、真ん中に香炉)を用意してください。

 遺体の安置が整ったら、お寺へ連絡し、「臨終勤行(りんじゅうごんぎょう・枕経)」をつとめます。
 「臨終勤行」は、臨終に際して、長年お育ていただいた阿弥陀様(ご本尊)への当人、人生最後の感謝のおつとめです。だから、本当は息のあるうちにおつとめするのが本来の「臨終勤行」の意味となっています。

 おつとめは、ご本尊に礼拝するのであって、遺体を礼拝するのではありません。


 余談ですが、私の両親は、もう10年くらい前になるでしょうか、自分たちの臨終時に白衣(医療関係者の白衣でなく、僧侶の白衣(はくえ))を着たいから、法衣店で買ってくれないか と言い、私が法衣店のカタログで購入し、送りました。
 1回きりの白衣ですのに、その白衣、「形状記憶で洗濯に強い、アイロン不要」って書いてあり、笑ってしまいました。
 臨終時の服装を準備万端整えた両親ですが、幸い二人とも健在で、まだ白衣を着るに至っておりません・・・
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法専寺の歌

2007年04月26日 | 行事・案内
 じゃーん  ついに「法専寺の歌」が出来ました

 歌詞はご門徒のM・Yさん、作曲は総代さんS氏の知人で音楽教師・B先生。
 本日、B先生が当寺にお出でくださってご披露。
 
 ウチの仏教讃歌コーラス会員は、地元K町もお隣H町も町区行事で残念ながら不在。
 仏教婦人会会長さん(法専寺の母)とご近所のIさん、Mさんが歌の練習に来て下さいました。先生をお連れくださったS氏奥様も加えて5名での練習。

 まず、先生が録音して持参くださっていたMDに合わせて練習。その後、先生にピアノを弾きながら歌っていただき、それを録音しました。
 ほのぼのとした、やわらかい、心地よいメロディで、一同感激
 会長さんも「歌詞の『南無阿弥陀仏』が旋律にのって心にしみる・・・」と喜ばれていました。

 本当にすてきな「法専寺の歌」が出来ました。 作詞・作曲していただいたお二人に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

 29日の門徒総会に間に合って「法専寺の歌」完成です
 ご門徒の皆様、総会で歌いましょう  お楽しみに
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葬式に関する迷信

2007年04月25日 | 仏教
「佐賀教区基幹運動推進委員会 教学部」平成17年3月発行 の「葬儀・仏事のしおり」があります。 その一部を参照しながら、ご紹介します。

 してはいけないこと

○ 友引など日の善し悪しを気にする
○ ご遺体の死装束(魔除け・六文銭など)
○ 枕元に、お箸を立てた一膳飯、枕団子、水のお供え
○ 出棺の時、お茶碗を割る(帰ってきてもあなたの食べるご飯はないよ、というみせしめです)
○ 棺を3回半まわす (捨て犬・猫ではない) 
○ 清め塩 (仏教において、死はケガレではありません)
 
浄土真宗にふさわしくない言葉 と ふさわしい言葉

○ ご霊前  最初から「御仏前」と使う
○ 天国・草場の陰・冥土  お浄土、さとりの世界
○ 永眠  お浄土に往生され・・・ 
○ 安らかにお眠りください  お浄土よりお導きください
○ ご冥福を祈ります  謹んで哀悼の意を表します
 


  
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灯明(とうみょう)

2007年04月24日 | 仏教
 「灯明」とは、仏前に灯りを点火することです。
 ご家庭のお仏壇であれば、ロウソクに火を灯すこと。
 
 よくお通夜の間「一晩中ロウソクの火を灯し続けなければならない」と思われている方が多いのですが、

 仏前に灯明、お線香をあげるのは、おつとめ、礼拝する間だけで結構です。
 通夜の弔問客も帰宅され、お参りが済んだ後は、火を消してください。
 灯明をたやさないために(ロウソクの火が気になって)徹夜なさる必要はありません。
 普段もお仏壇の前を離れる時は、ロウソクの火を消す。防災上も大切です。

 私など、仏前のロウソクは消しても、ガスレンジの火は、つけていること自体をよ~く忘れ、何回、鍋を炭化させてしまったことか・・・
 だいたい、思考が中断されると、その前自分が何をしていたかを忘れて、全く別のこと始めてしまうので・・・危ない、危ない 
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4月29日

2007年04月23日 | 行事・案内
 今週末から、ゴールデンウイークですね。皆様方、ご予定はいかがですか?
 お寺は、休日も予定が詰まっています。
 4月29日は、「天皇誕生日」から「みどりの日」だったのが、今年から「昭和の日」になったんですね。
 法専寺では、毎年4月29日に降誕会(ごうたんえ)と門徒総会を行っています。
 
 降誕会(ごうたんえ)とは、親鸞聖人のお誕生日のお祝い会です。本当は新暦5月21日なんですが、ウチの寺では、4月29日に門徒総会と併せておつとめしています。総会終了後は、本堂で降誕会の宴会をしています。歌、踊り、手品・・・

 先週土曜日は、珍しく何もない休日でしたので、住職と仲良く、草取りと総会資料の印刷物のホチキス留め作業をいたしました。

 平成8年、夫が住職になってから(つまり、私がしたいようにお寺の改革?に取り組み始めてから)門徒総会の折「法専寺行事・活動報告」として、1年間の行事を全て報告しています。
 ウチの寺内だけでなく、法専寺関係者が関わった本山、教区、組の行事を事細かに記載。(もちろん、ご門徒さんの個人的な仏事は除外です)

 何のために始めたか・・・と言えば、「お寺は葬儀・仏事をしているだけではない」ことをアピールするためです。
 これだけたくさんのご門徒方々が、いろんな研修会だの、ボランティア活動だのに参加・活動されていることを広く知っていただくためです。
 だから、総会に欠席の方々にも、後日郵送。

 郵送しても、お寺に関心のない方は、ポイッとゴミ箱行きで、あまり目を通してくださらないかもしれない・・・ でも、「何かわからんが、お寺はいろいろ行事があっているのね」という印象をもっていただくだけでも意味がある・・・と考えます。

 住職は、私が詳細なお寺の活動報告書&行事予定・ご案内を作成することを「坊守の趣味で・・・」と言っています。(はい、半分は趣味です。自己満足かもしれませんが、楽しんでしています。)
 
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主人公

2007年04月22日 | 仏教
 きょう住職と手分けして同時刻にお参りへ。私は長年総代さんを勤めていただいていたM氏宅の建碑慶讃法要と年回忌。建碑慶讃法要は、今回お墓を新しく建て直されたお祝いの法要。
 本日、ものすごいドシャブリの中、まず、ご自宅でおつとめした後、お墓でも簡単なおつとめを。
 その後、また、ご自宅へ戻って、ご両親の年回忌のおつとめ(聖典をお配りして、阿弥陀経を一同でおつとめ)しました。ご体調をくずされておられるM氏も車いすに座ってご一緒にお参りされました。

 さて、先日図書館で借りた禅語の本に「主人公」と言う言葉が、ありました。

 「主人公」 自分が自分の主人公になっていますか? 

という問で書かれていました。

 「周りの人にどう思われているのか?」「みんながそうするから、自分も」という「周りにあわせる私」ではなく、「私」は「私」である生き方。
 もちろん、私が「私」で生きる、と言うのは、人のことも考慮せずにわがままに生きる意味ではありません。


 これまた、池田晶子さんの「知ることより考えること」のp70 「悪いものは悪い」に、こう書かれていました。

 面白いのは、人は、みんなしているじゃないか悪いことを、とは言っても、みんなしているじゃないか善いことを、とは言わないことである。(略)
 発覚しなければ悪いことは悪いことではないと思っているのも同じ理屈である。善いこと悪いことは、他人すなわち社会のルールにあるもので、自分の中にあるのではないと思っているのだ。

  「私が私の主人公で生きてゆける」と言うことは、自分の心に世間の価値観だけでなく、仏の価値観をもち、仏の価値観にそって、自分はどう生きてゆくか・・・ということだと、思います。

 人の言うことに左右されない、自分が主人公の人生。
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哲学者

2007年04月21日 | 本紹介
 さて、「観無量寿経」は、凡夫のための説法。お経ですので、親鸞聖人がお示しの結論から申しますと、私のような凡夫が救われる道は、阿弥陀仏の「本願」にまかせる心ですよ。「南無阿弥陀仏」ですよ。というお経なのであります。

 お経の中身については、私はご説明できるほど勉強しておりません。どうぞ、勧学の先生方の著書をお読みくださいませ。
 と、己の浅学さを誤魔化したところで・・・
 
 今、遅ればせながら、今年2月、46才の若さで亡くなられた 哲学者・池田晶子さんの著書「知ることより考えること」新潮社 を読んでいるのですが、ホントおもしろい 哲学の専門用語を使わず、わかりやすい納得の哲学。
 本の帯に「痛快哲学エッセイ」とありますが、本当にその通り。

 まるで、禅僧の説法を聞いているような・・・ビシッと、スカッと爽やか。
 例えばp47~「探すのをやめよ」
 「自分探し」で「自分にあった」「自分にふさわしい」仕事が見つからない ということについて

 自分なんてものが「ある」と思っているから、人はいつまでもそんなものを探すことになる。いつまでも生きていると思っているから、いつまでも迷うことになるのだ。生きることは死ぬことだとわかるなら、できることしかしなくなる。(略)
 戦後の教育は(略)「個性の尊重」に加え「生命の尊重」、生きることがそれだけで素晴らしいと教え、生きることは死ぬことがあるから素晴らしいとは教えなかった。人間は死ぬものだという事実すら隠蔽した。よって子供たちは、自分というものは、何となくいつまでも生きているものだと思っている。自分らしく、自分の好きなことだけをして、いつまでも生きているようなのが人生なのだと。かくて、彼らはしたくない仕事なんか、するはずがなくなる。

 私、いっぺんで池田晶子さんのファンになりました。
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