お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

透明な自分

2009年10月30日 | 仏教
 かって、無差別殺傷事件を起こした青年が自分を表現したのが、
 「透明な存在」

 彼は、誰も自分の存在に気づいてくれない・・・という意味で、そう表現した想像します。
 孤島に一人の孤独感より、大勢の人々の中での孤独感が、より強く、つらいもの。
 
 愛されることが幸せであるのは、当然ですが、
憎まれるってことも、まだ相手に「自分」という存在を認められているだけマシで、
 何の対象にもならず、気づかれず、
「無視」され続けるというのが、一番悲しいことなんだと思います。

 しかし、「透明な存在」と、言った彼こそ
昨日、ご紹介したように

 「透明」どころか、最も「自分濃度が高い」人だったのでしょう。

 「自分がもてたい」「自分が注目されたい」自分が 自分が・・・

 果たして、そう思う「自分」は 他者のことを無視せず、人の痛みを想像することがあったのか・・・

 「自分濃度が高い」と、より一層、自分も周囲も傷つくのでありましょう。

 そう言う意味で、仏教・・・目指すところは、自分の濃度を薄めること・・・
 その究極が、「透明な自分」(自己執着からの開放)
 
 それは、自分が消えてなくなるってことではなく、
他と共にあること、自他の境がないこと である と味わっております。
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「自分」から自由になる

2009年10月28日 | 本紹介
 小池龍之介 師 著書 
 「自分」から自由になる沈黙入門 (幻冬舎)

 小池龍之介師は、まだお若い禅僧ですが

 実にわかりやすく、面白く 仏教 を説かれております。

  不幸なんかを(心の)餌にしないようにココロを教育してあげる必要があるのであって、間違ってもココロの要求に教育され操られ、不幸をシアワセに感じるマゾヒズムにはまってはダメだよ・・・(略)
 ゆえに「自分」まみれのココロなんていうやばっこいシロモノからは、足取り軽くイエデするのがよろしかろ。 ←(心の)は、私が書き加えました

 自分の心(執着心)からの 家出(解脱)
 執着心ゆえに、ままならぬことに より一層苦しむ

 禅宗ならば、心を無に近づける修行を積む
 真宗ならば、心を阿弥陀如来にお任せする

 ともに、著者の表現をお借りすると

「自分濃度をうすめる」ことなんだと味わっております。
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愚の力

2009年10月26日 | 本紹介
 この度、文春新書 から出版された 

浄土真宗本願寺派(西本願寺)の 
大谷光真 第24代門主の 著書

 「愚の力」 

 親鸞聖人の教えを 一般向けに、大変わかりやすく書かれた本です。

 自分を「賢い」と思っている(人間中心の考え方)からの脱却 を 説かれておられます。

 私は、昨日、ゆ○タウン佐賀の紀伊○屋書店 で店員さんにお尋ねして、ゲットしてまいりました (新書コーナーにも、仏教書コーナーにも まだ置いてなくて、自分では見つけられませんでした・・・)

 ダライ・ラマ14世 との 対話「仏教とは何か」も収録されています。

 

 
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仏華とコーラス

2009年10月25日 | 雑感
 昨日、第19回佐賀仏教讃歌コンサート が開催。

 新型インフルエンザ流行中の佐賀ですが、
 各団、元気に仏教讃歌コーラス曲を披露。

 写真は、コンサート開催に合わせて、会場の画廊にて、21日から昨日まで展示されていた「仏華の生け方手順」の 完成作品 です。

 21日の生け込みの翌日午後、受付担当で会場へ。
 たぶん、どなたも見に来られず、暇だろう と、文庫本持参で行ったのですが、
お寺関係者だけでなく、生け花の先生方、一般の方も見においでくださって、本など広げる間もありませんでした。

 見事な仏華を生けてくださった坊守様方、お疲れ様でございました。
 また、コンサートの関係各位 お世話になりました。お疲れ様でございました。

 何より、ご多用の中、会場に足を運んで、仏華をご覧いただいたり、仏教讃歌を聴いてくださった皆様に厚く御礼申し上げます。

 来年の 佐賀仏教讃歌コンサート は 20周年記念コンサートとなります。


 
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ついつい

2009年10月23日 | 雑感
 今朝、M・Sさん宅に祥月命日のお参りに伺って、聞いて笑った話。

 Mさんは、大きな老犬を飼っておられる。
 老犬のボビーは、ご近所の人気者。

 行事でご近所が集まった折、皆さんがボビーは元気か、尋ねられた。

 尋ねられたMさん、
「元気だけど、最近は毛が抜けて、ハゲてきた」と答えたところ・・・

 それを聞いた 頭の毛が薄くなられたご近所紳士が
「うん、そりゃ、年とれば、誰でもハゲてくる・・・」
と、言われ・・・

 Mさん、何も考えずにものを言ってしまったことを後悔した・・・と。

 いえいえ、毛が薄くなろうと、人間も犬も同様、
年を重ね、「毛が抜けて、ハゲてきた」ボビーも 賢く、魅力的なワンちゃんなのであります。

 

  



 
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供養は不要? その3

2009年10月22日 | 雑感
 宗派によっては、「追善供養」を大きく掲げておられるところもありますが

 浄土真宗の味わい方をご紹介。

  阿弥陀如来(真如から、覚りに疎い、フツーの人間を救済するため、現れてくださった仏さま)に 心を合わせて生き、人間としての命を終えたものは、
阿弥陀仏の救いにより、浄土(真如の世界)に生まれ、仏(真理の覚者)と完成する

 つまり、故人は 覚りの仏さま なのだから 
追善供養(故人の冥土での幸福を祈って、お経聞かせてあげることで、「善」をふり向けること)は 必要ない

 覚りから ほど遠い私が 覚りの仏さまに対して 「してあげる」ことなんて、何~も ない  

 と、聞くと

 「何~だ、じゃあ 法事(供養)なんて、しなくて いいじゃないか
と、思う方が多い・・・

 はい、「追善供養」ならば、必要ない
 あるいは、「供養してあげないと、生きている者にタタリがあるかもしれない」という自分に厄が起こることを心配して、お祓い の意味でする、全く、仏さまに対して無礼きわまりない供養ならば、必要ない

 じゃあ、何のために法事をするのか

 繰り返し、くどいですが・・・

 覚りに ほど遠い フツーの人間が 
より多く、阿弥陀如来の前に 謙虚に座り、
普段、合わすこともない手を合わせ、
普段、口にすることもない「南無阿弥陀仏」を称える機縁をもつ

 そういう「仏縁」作りの一つが、故人を縁とした法事です。

 故人は阿弥陀如来と同じはたらき で 私に「仏・覚り」に目を向けるように願っておられます

「法事なんて、面倒くさいこと、したくない」と、
仏さまに心をあわせようとしない私を悲しんで見ておられるのであります。

 そう言う意味で、本当の「法事」=自分が仏法に心を合わせる仏事 を 数多く持ってください

 と、読んで、「何だ、これは、法事を多くして、お寺がお布施を得るために、言っているんじゃないの

と、またまた思われたアナタ、

 お寺を預かっている者の使命は、仏法を伝えることです。
つまり、僧侶自身も含めて、一同、仏さまの前に座る 「ご縁」 を たくさん持つように 勧めるのが 責務ですので・・・ 
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供養は不要? その2

2009年10月20日 | 仏教
 昨日の続きです。
 前にもご紹介しましたが、
 法事を営む時の 遺族、出席者の気持ちは

 「故人の霊を慰めるため」(故人のあの世での幸せのため、慰霊のため)
故人の好物などをお供えして「故人を想う」ため・・・という方が多いのでしょうが・・・

 浄土真宗で仏事をする意味は、

 もちろん、亡くなった方を偲び、大切に思う(感謝する)気持は、同じですが

 
  故人を縁として
 お参りする人が 仏さまの教えに遇う ために勤めるもの

 故人のために「してあげる」 でなく 私たちが故人の声(仏さまの心)を聞くために「させていただく」 もの なんです。

 何故なら、故人は「仏さま」(真理を覚った方)なんでしょう

 仏さま に対して、私たちが「してあげる」「慰めてあげる」という ド厚かましい気持で 法事に臨んだのでは、申し訳ない。

 つづく・・・

 

 

 

 

 


 
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供養は不要?

2009年10月19日 | 仏教
 昨日は「女性の集い」 歎異抄を共に学び初めて5回目。

 昨日は「歎異抄」第5条 (現代語版)

 親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かって一度もありません。
と、いうのは、命のあるものはすべてみな、これまで何度となく生まれ変わり死に変わりしてきた中で、父母であり兄弟・姉妹であったのです。
 この世の命を終え、浄土に往生して ただちに仏となり、どの人もみな救わなければならないのです。
 念仏が自分の力で努める善でありますなら、その功徳によって亡き父母を救いもしましょうが、念仏はそのようなものではありません。
 自力にとらわれた心を捨て、速やかに浄土に往生してさとりを開いたなら、迷いの世界にさまざまな生を受け、どのような苦しみの中にあろうとも、自由自在で不可思議なはたらきにより、何よりもまず縁のある人々を救うことができるのです。
 このように聖人は仰せになりました。

 私、初めて、

 親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、かって一度もありません

の一文に接した時、「え~ 親鸞さんって、親の供養もしない。なんて冷たい人なんだろう」と思ったのです。

 でも全然違うことでした・・・つづく・・・
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今こそ 親鸞さま

2009年10月17日 | 行事・案内
 「聖典に学ぶつどい」主催、「本願寺派佐賀教区 佐賀真宗伝道懇話会」後援で
聖典に学ぶ 佐賀開講25周年記念講話 & 親鸞聖人750回大遠忌法要お待ち受け として

 今こそ 親鸞さま

 「法然上人から親鸞聖人へ」 本願寺派 勧学 梯實圓 師

 「愚禿と名のられた聖」 行信行校 講師 天岸浄圓 師

 「罪悪深重の凡夫と知らされて」 行信行校 校長 利井唯明 師

という、ご高名な先生方でオールスター布教使さん(すみません、下世話な例えで・・・)
の 法話会です。

 偉い先生方なのですが、私のような勉強不足の者にも よくわかる、味わい深い有り難いお話をいただけます。

 日時:10月19日(月)午後1時~4時半
 会所:願正寺 (佐賀市呉服元町)

 どうぞ、お参りください

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暗くない!

2009年10月15日 | 仏教
 お釈迦様は  人生は苦なり と、仰った。

と言うと、

 「仏教って、何だか暗い、ネガティブな教えなのね

と、思われる方がおられるようで・・・

 いえいえ、仏教は、

 このままならない人生を どう心を転じたら、楽に生きられるか

という明るい教えであります。

 そもそも、フツーの人間は、ジコチュウで、自分に都合のよいことしか考えない。
 
 「人生は楽なり」という前提で 生きる ということは、それだけ不足、不満、愚痴、怒りなど・・・負の感情が 生じやすいってことで・・・

 どんなに恵まれていても「不幸」だと思う人は、「不幸」なんでしょうし・・・
 
 だから、「人生は苦なり」を前提に、覚悟を決めて、生きているくらいで ちょうどいい と思う。

 自分は、最悪の どん底にあっても当然なんだ・・・と、生きているほうが、
より、幸せを感じられるのではないでょうか

 ああ、これも、あれも、恵まれていた、有り難かった・・・と。

幸せは、今の私の 外部に あるものではなく、
 今、私の人生に 感じるもの  

と、仏の教えを味わっております。

  

 

 

 
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