お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

中道

2008年07月31日 | 仏教
 お釈迦様は、釈迦族のプリンスでしたが、王宮の快楽生活を捨てられました。
 お金も女も地位も・・・人にチヤホヤ、頭を下げられることも・・・「虚しい」と思われたわけですね。

 そして、それはそれは厳しい苦行に励まれるのですが・・・
 その苦行・極端な禁欲主義も捨てられます。

 それは、「キツイから、もうヤ~メタ」ってことじゃなく、
 肉体を極限に追い込んで修行しても、精神的に疲れて?、正しくない「妄想」を観、それを「真理に至った」なんて勘違いするかもしれない。

 お釈迦様の弟子・ソーナさんが激しい修行を続けておられた時、お釈迦様はこう仰ったそうです。
 「ソーナよ。おまえは琴を弾くのが上手らしいが、琴の弦は、あまり強く張っても、逆に、弱く張っても、いい音は出ないだろう。弦をほどよく整えることで、よい音を出すことができる。仏道もそれと同じではないか」

 極端を排する「中道」が仏教であります。「ほどよく」「よいかげん」
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「誰でもよかった」

2008年07月30日 | 仏教
 先日、NHK朝の連続テレビ小説「瞳」の中で、落ち込んでいる主人公に対し、中学生の少年が学校の先生の言葉として言ったのが、

「今、気分で落ち込んでいるだけだよ。本当の意志は違うはずだから頑張れるよ」(正確なセリフは覚えていませんが・・・)

 「気分」・・・そうなんだろうな~
 
 簡単に人を殺傷する事件があまりにも多すぎる。
 
 自分の一時的な「快・不快」の「気分」に、自分が支配され、何でも人のせいにして、どうにも取り返しのつかないことをしてしまう。

 しかも「誰でもよかった」と言うならば、
 
 「他人」でなく「自分」でもよかったわけで・・・
 
 その自分の「気分」がはれるまで「誰ならぬ自分」を思う存分、刺してみればよかったんだ。

 そうしたら、その痛みの中で、「自分が他の誰でもありえたわけで、自分は、こんなことをするために生まれてきたのだろうか」と、薄れゆく意識の中で、やっと気がつくことができるのではないだろうか・・・

 自殺も悲しいが、有差別で(自分が除外されているなら、無差別ではない)・・・いっしょうけんめい生きている人(自分も他人も大切に生きている人)を害することは、一番くやしくて、悲しい。

 
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世界宗教者会議

2008年07月29日 | 仏教
 本願寺新報7月20日号によると

 先日の洞爺湖サミットを前に、札幌で「世界宗教者平和会議」が開催。 23カ国から300人の宗教者が集まられたそうです。
 日本からは、本願寺ご門主、天台座主、高野山真言宗管長などの諸師が参加。

 本願寺ご門主が開会式において、英語で基調講演をされたそうで、その日本語訳が掲載されていました。そのごくごく一部をご紹介です。

「例えば5月の中国四川省の大地震は国家や宗教の違いを超えて、助けたいという思いを多くの人にいだかせました。ところが、イラク戦争においては、味方の犠牲に心を痛める人々が、敵側の犠牲には心を痛めるどころか、拍手する人まであります。しかし、犠牲者の多くは罪のない庶民、弱い者です。(略)私たちは事件や紛争、飢饉や飢餓という現実を偏見少なく、見つめるところから出発したいと思います」

「人間は欲望無しには生きられませんし、世の中の発展もありませんが、一部の人々が節度なく、欲望を広げる時、人間同士の対立が生じ、動植物を含む環境の汚染破壊が進みます。人間は地球上の複雑なつながりの一部分を担っているのです」

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大騒動

2008年07月27日 | 雑感
 今朝、夫の携帯を洗濯してしまいました。

 幸い前の携帯があったので、古くからの電話番号・メアドはわかりましたが・・・
 新しい情報が全てパア~

 そんな夫に留守番させて、午後は義姉と二人「クライマーズハイ」を観てきました。
 携帯なんてなかった頃のお話・・・
 

 
 
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墓参り

2008年07月26日 | 仏教
 先日、本願寺佐賀会館で行われた「ビハーラ基本学習会」での「ルーシーダットン」(ヨガ)の講習会。勉強になりました。楽しかったですよ~

 若い美人ご講師お二人・・・なんと、お二人とも本山の職員、兼、インストラクターなのでありました。
 やわらかい京都なまりでのご指導。

 講師のお一人は、大谷本廟にお勤めで、彼女が「佐賀へ指導で行く」ことを聞いた大谷本廟局長 藤岡崇信師が、「ようこそ大谷本廟へ」の文章数枚と、毎月の掲示版の言葉と解説の文章をレジュメに加えてくださっていました。

 七月の掲示は、「亡き人に 我背押されし 墓参り」

 こう解説されています。

 上掲の句の作者は不明ですが、お盆や正月、春秋の彼岸会などの時期に全国各地で見られる墓参りを題材にした句であります。
 しかし、墓参りを単なる風物詩としてとらえられたものではなく、お参りする人の心の内面、或いはその背後にあるはたらきを深く見つめて詠まれた句であります。(中略)
 「お墓参りは、たまにはお参りしなくては、という単純なことではなく、亡き方に願われてお参りし、そしてこの私自身の生と死を考える機会をいただいているのですね」という作者自身の深いこころが込められているように思います。
 
 ちなみに、大谷本廟 毎月の掲示の言葉は、ヨガ講師の彼女が筆書きされておられるそうです。
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日本語を知らん

2008年07月25日 | 雑感
 報道されている「文化庁 国語調査」 7割が誤解

 まさに、私のことであります。

 「憮然」も「げきを飛ばず」も「煮詰まる」も・・・

 間違って使っていました~

 ああ、恥ずかしい 
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お墓

2008年07月24日 | 仏教
 先日、ある方がこう言われた。
「初めて『千の風になって』を聞いたとき、おいおい、そんなこと言うなよ と違和感をおぼえました」
 
 別の方もこう言われた。
 「『私はお墓にいません』なんて言ったら、お寺は困るだろう。何のための墓参りなのか

 う~ん、前に書かせていただきましたが、結論から言うと、「千の風になって」は、極めて浄土真宗に近い考え方(味わい方)です。仏教では故人のお骨に霊がやどっているとは、考えません。
 冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、お骨は、お骨。

 もちろん、遺族の感情としては、
 亡くなった最愛の者は、姿も無くなり、「白骨の章」のように、「ただ白骨だけが残る」 
 自分の最愛の者を偲ぶ「直接の縁(よすが)」は、お骨だけ・・・
 だから、お骨を大切に埋葬(納骨して)、お墓の前で、生前の姿を思い、偲ぶ・・・
 それは、遺族としては、当然の感情です。
 
 でも、亡くなった最愛の者は、生前の「凡夫」のままの感情をもった「霊」として、お墓の中で、じっと眠っているのではない。
 「生前、好きだったから・・・」とお酒や饅頭のお供えを期待しているわけじゃない。
 今や、故人は、さとりの「仏」となって、後に残った者の心に、はたらきかけてくださっている・・・「さとりに導こう」とはたらいてくださっている。

 その仏さまの「はたらき」に気づき、心を合わせ、なるべく、仏さまを悲しませない生き方をさせていただくのが、遺族の「仏さま」への報恩感謝。そういう気持でお参りさせていただくのが、「墓参り」だとオバサンは味わうのであります。

  
 

 

 
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壮年会ご連絡

2008年07月23日 | 行事・案内
 先日19日(土)夕方からの 法専寺仏教壮年会7月例会は、夏休み連休初日で行事が重なったためか、あまりの暑さにビールを呑んで、今さらお寺まで出かける気力が失せたのか・・・
 新会長M・Tさんのデビューだったにもかかわらず、8名のご出席しかありませんでした。

と言うことで、欠席された壮年会会員諸氏にご連絡です。

 佐賀教区仏教壮年会連盟の夏期研修会(安居)のご案内

 日時:8月23日(土)13:30受付~24日(日)11:00解散
 場所:本願寺佐賀会館
 講師:藤木徳仁 師
テーマ:「自見の覚悟」~歎異抄序文より

 参加自由、希望の方は、法専寺までお申し出ください。


 次回法専寺仏壮例会は、9月13日(土)18:30~

 次回「若っかもんで呑もう会」は、11月1日(土)19:00~

 法専寺グランドゴルフ大会は、11月2日(日)仏壮11月例会後、10:30~
 
 暮れの境内清掃は、12月14日(日)9:00~

と、決まりましたので、手帳、カレンダーに記載をお願い致します

 
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白骨の章 その2

2008年07月22日 | 仏教
 昨日、ご紹介した「白骨の章」
 初めて聞かれた方のために「御文章 ひらがな版」を基に現代語訳にて、ご紹介します。
 「人の世の はかない様子をよくよく考えてみますと、この世は幻のような一生です。一万年も生きた人がいるなどと聞いたことはありません。人の一生はすぐに過ぎてしまうのです。今、いったい誰が百年の命を保つことなどできるでしょうか。
 私が先か、人が先か、今日とも知れず明日とも知れず、人の命の尽きる後先は絶え間のないものです。朝には元気な顔であっても、夕べには白骨となってしまうような身です。無常の風に吹かれると、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息はながく絶えて、元気な顔もたちまち美しい姿を失ってしまいます。そうなってしまえば、家族が集まって嘆き悲しんでも、どうしようもありません。
 そのままにしてはおけないので、野辺のおくりをし、荼毘にふして煙となってしまうと、ただ白骨だけが残るのです。それはもう言葉にも言い尽くせない悲しみです。
 人の世のはかないことは、老若にかかわらないことですから、誰も皆 後世の浄土というもっとも大事なことを心にかけて、阿弥陀如来を深くたのみたてまつって、念仏しなければなりません。 謹んで」


 
 「後生」「後世」は、死んでからのこと・・・というよりも、この命の行く末・・・普段生きているのが当たり前と命の現実を忘れて生活している者が、命の現実に気づかされる、それ以後の「私の生き方・心のもちよう」だと、私は味わっております。

 「浄土」は、「死者の世界」「あの世」ではなくて、「悟りの世界」「仏の世界」のことです。

 「阿弥陀仏をたのむ」は、私が力を入れて「阿弥陀様、私を悟らせてください!お願いします」と、「頼む」「お願いする」というより、「あるがまま、おまかせする。阿弥陀仏の御心にそう」って感じでしょうか。

 「念仏する」は、「行」として阿弥陀仏の名を称えるのではなく、もれなく浄土に導いてくださる「阿弥陀仏の仏恩に感謝して心を合わせる念仏」であります。

 あ、「誰か百年の形体を保つべきや・・・」現代では、ご長寿で百歳の方もたくさんおられますので、現代に合わせるなら、「誰か百五十年の形体を保つべきや・・・」くらいに年齢を引き上げておかなければならないですね。



 
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白骨の章

2008年07月21日 | 仏教
 仏事の最後に、蓮如上人(本願寺第8代門主)が書かれた「御文章」(浄土真宗の教えをご門徒さんに宛てて書かれたお手紙)を拝読する作法になっています。

 「御文章」の中で、一般の方にも有名なのが「白骨の章」です。

 それ 人間の浮生なる相を つらつら観ずるに、おおよそはかなきものは
 この世の始中終 まぼろしのごとくなる一期なり、
 されば いまだ万歳の人身を 受けたりということをきかず 一生過ぎやすし、
 いまにいたりてだれか百年の形体をたもつべきや 
 われや先人や先 今日ともしらず明日ともしらず、
 おくれさきだつ人は ものとしずくすえの露よりもしげしといえり、
 されば 朝には紅顔ありて 夕べには白骨となれる身なり、
 すでに無常の風きたりぬれば すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ
 ひとつの息ながくたえぬれば 紅顔むなしく変じて 桃李のよそおいを失いぬるときは、六親眷属あつまりて なげきかなしめども さらにその甲斐あるべからず さてしもあることならねばとて 野外におくりて、夜半の煙となしはてぬれば
 ただ白骨のみぞのこれり あわれというもなかなかおろかなり、
 されば 人間のはかなきことは 老少不定のさかいなれば たれの人も はやく後生の一大事を心にかけて、
 阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて 念仏申すべきものなり、あなかしこ あなかしこ


 本願寺の「御文章ひらがな版ー拝読のためにー の 解説によりますと

「浮生なる相」・・・人の世の定めのないありさまをいう。
「始中終(しちゅうじゅう)」・・・始は少年期、中は壮年期、終は老年期のこと。人の一生をいう。
「一期(いちご)」・・・一生涯
「万歳の人身(まんざいのにんじん)・・・一万歳も生きた人間。
「もとのしずくすえの露」・・・草木の根元に落ちる滴、草の葉の末にやどる露のことで、人の寿命に長短はあるが、いずれは死ぬというたとえ。
「桃李のよそおい」・・・桃や李(すもも)の花のように美しい姿。
「六親眷属」・・・父母・兄弟・妻子の六親と親戚の者。
「なかなかおろかなり」・・・言葉で表現すればかえって不十分である。

「後生の一大事」・・・「人がこの世を終え、浄土に生まれて仏のさとりをひらくこと」を人生最大の課題と蓮如上人は仰っています。

 つづく・・・




 
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