お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

800年

2007年05月31日 | 仏教
 昨日の佐賀県U市の医師はしか感染騒動。 
 きょうの新聞によると、医師は陰性で、はしかに罹ってなかったのだそうです。何故、はしかを疑われたのか 単なる高熱だけでは、発表しないだろうに・・・高熱の上、ジンマシンみたいな発疹が出て、はしかを疑われたのか・・・(また、ヒマなオバサンの想像、妄想が始まる・・・) 

 さて、先日ご紹介しましたが、
 親鸞聖人が「承元の法難」で越後に流罪となったのが、1207年。
 今からちょうど800年前
 
 ということで、今、地元の新潟県上越市では「親鸞聖人 居多ヶ浜上陸 八百年記念」のイベントがあっているそうです。

 上越市立総合博物館では、現在(5月26日~6月24日まで)「越後・上越の寺宝展」で、聖人ゆかりの寺院所蔵の法物類が展示されているそうですし、

 聖人ゆかりの地を巡る  バスツアー「親鸞聖人上陸八百年特選コース」があっているそうです。ボランティアガイドさんの案内付きで、7月末まで、毎週土・日に運行。(要予約)
 
 コースはJR直江津駅北口~居多ヶ浜~竹之内草庵(聖人の庵)跡と伝えられる五智国分寺~恵信尼公廟所 (昼食は「ゑしん会館」で「ゑしん御膳」だそうです) どんなお料理なんでしょうねえ

 ところで、親鸞聖人と共に、越後~常陸~京都 と移り住まれていた恵信尼さま(聖人の奥様)のお墓が、何故、京都ではなく、越後にあるのかは、次回へ続く・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐賀の話題

2007年05月30日 | 佐賀ネタ
 まだ5月なのに最高気温が連日30℃近い佐賀です。でもカラッとしているので屋内はそれほど暑くありません。
 佐賀県U市でも、はしかが・・・東京から帰省中に、はしかを発症した大学生が入院していた病院の20代医師が感染されたらしく大騒動のようです。
 
 昨日美容院で女性週刊誌を見ていたら、「保育園料 未払いワーストランキング」が掲載されていました。「ワースト1位 大阪市」
 そして、思わず「エエッ」と声を上げてしまったのが、「2位 佐賀市」・・・ちょっとショック  「なんで」 ちなみに3位は宮崎市でした。
 
 今朝の佐賀新聞に、2035年厚生労働省の「都道府県別将来推計人口」のランキングが出ていましたが、佐賀県は指数順位23位、2005年の86万6千人が、30年後には15万4千人減、唐津市規模の自治体がなくなることになるのだそうです。

 佐賀市にJA佐賀経済連直営の佐賀牛レストラン「季楽(きら)」というお店があります。やわらかくて美味しい佐賀牛をメインに、全て佐賀産の食材を楽しむことができるので、他県のお客様に(先日はオーストラリアの友人一家にも)好評です。福岡の友人に朗報。

 2005年オープンした東京銀座(並木通りロイヤルクリスタル銀座5階)の「銀座季楽」(「平成教育委員会」で正解者に提供、紹介されていましたね)に続き、今年7月には、福岡市西中州に「博多季楽」がオープンするらしいですよ

 佐賀牛は、ホントおいしいです。ご賞味くださ~い


 

 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰洛

2007年05月29日 | 仏教
 親鸞聖人は「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」(正式書名は「顕浄土真実教行証文類」)を52才頃から執筆開始。(先日、新聞にも載っていましたが、聖人直筆の「教行信証」が東本願寺に保存されています)

 親鸞聖人は「教行信証」を執筆中の60才頃、家族を伴い、関東から京都に帰ります。
 その辺の事情は、

 終生、自分が新しい浄土教一派を開いたというような、開祖としての意識はなく、あくまで法然上人の弟子であると自認していた親鸞聖人です。

 1225年、再びの念仏弾圧(法然上人の墓所が破壊され、浄土教指導者が流罪)で、法然教団は荒廃、その教えも歪められていきますが、その噂に耐えられなくて、京都の法然教団の(たぶん年若い)同輩のためにも早く「教行信証」を完成し、法然上人の真意を伝えたかったのではないかと思われます。

 もちろん、京都では、鎌倉幕府により「念仏禁止令」が出ていますから、表だった布教はできません。住居も転々としながら、ひたすら著述に励まれたようです。

 漢文での論文である「教行信証」の著述が一段落してからは、一般庶民にわかりやすいように和文の著作を始められます。たくさんの著述がありますが、特に「和讃」は有名です。和語による仏や高僧を讃える歌です。
 76才の時「浄土和讃」「高僧和讃」、85才で「正像末和讃」を執筆されたそうです。

 すごいですよね。鎌倉時代の85才ですよ 何と頭脳明晰。

 「正信偈」の勤行の時、念仏に六首の「和讃」を加えたおつとめをしますよね
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり ~」
 これは「浄土和讃」の中の阿弥陀仏を讃える歌です。
 
 こうして念仏弾圧の中、仏法を説くことが、仏さまのご恩に報いること の思いから著述を続け、ついに1262年11月28日(新暦1月16日)90才で往生されました。


 親鸞聖人のご生涯を絵で描かれた「御絵伝(ごえでん)」という4幅の掛け軸があり、「報恩講」行事の時など、本堂に奉懸します。
 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東へ

2007年05月28日 | 仏教
 越後への流罪から4年後の1211年、39才の時、流罪赦免となった親鸞聖人ですが、京に戻らず、しばらくそのまま越後に留まります。
 赦免後、京に戻られた法然上人が、2ヶ月後80才で亡くなられ、京に戻っても師がおられないこと や 聖人のお子さん方が小さかったためと思われます。

 やがて1214年、42才の時、7年間過ごした越後を出て、常陸国(茨城県)笠間稲田に妻子と共に移ります。何故、関東に移られたのかは不明です。

 親鸞聖人は、稲田を拠点に、北は奥州から南は相模まで広範囲に伝道の旅を続けます。(今の出張と違い、車もコンビニもなく、大変だったでしょうね)
 
 その教えは主に農民に受け入れられました。 有力門弟のもとに門徒が組織され、「阿弥陀如来の本願のもとでは、すべてのものが平等であり、皆仲間である」という「同朋精神」で組織が運営されました。
 
 聖人は、伝道にあたり、自ら建立されたお寺は一つもありません。農民達が設けていたお堂を利用しての伝道でした。 また、礼拝の対象に自筆の名号(みょうごう・「南無阿弥陀仏」と書かれたもの)を用いられました。
 
 聖人の浄土教は、それまでの「藤原道長」的な自分の心を何も問題にせずに、あの世での快楽を期待して「祈願」する臨終来迎を否定。 自己執着(自分の「はからい」)を捨て、阿弥陀仏に帰依することで、さとりの浄土へ導かれる教えでした。
 
 関東での20年間の伝道生活の中で、親鸞聖人は「教行信証」という論文を著述されています。
 
 その「教行信証」の行巻の中にある、浄土真宗の教えを簡潔に示した讃歌(阿弥陀仏やその教えを伝えてくださった高僧方を讃える歌)が、日常よくおつとめする「帰命無量寿如来 ~」で始まる「正信偈」です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流刑地

2007年05月27日 | 仏教
 色っぽい「愛の流刑地」ではなく、「承元の法難」で流罪となった親鸞聖人の「流刑地」でのお話です。

 35才の聖人は藤井善信の俗名で越後の国府に流罪となります。
 当時の「僧」の資格は、朝廷から許可され、政教一致、国家繁栄を祈願する、言わば「国家公務員」だったんです。どんな理由があっても出家の僧を罰することはできなかったので、一旦、還俗させて(俗名つけて)から刑罰を与えた。

 僧の資格を剥奪された「藤井善信」氏は、国府の居多ヶ浜(こたがはま)に上陸したと伝えられています。
 
越後での生活で、親鸞聖人は、朝廷のための仏教僧侶でない ことを表明して、「僧に非ず、俗に非ず」と言い、「禿(とく)」の字を姓として、「愚禿親鸞」と名乗られました。

「愚」とは、自分の力をあてにして修行する立場を放棄。念仏の教えが「愚者を自覚して救われる」道であることを表し、
「禿」は、「ハゲ」ではなく・・剃髪して僧の姿をしているが、国家の求める旧来の僧ではないこと、また、自分は、高僧ではなく、俗人と変わらない凡夫そのものである という深い自己内省 の表明です。

(余談ですが、名字に「禿」の字が付くお寺の友人がいます。彼女は、人に口頭で名字を説明する時、とても説明しづらい・・・と話していました。特に相手の紳士が頭の毛の薄い方の場合・・・)

 さて、親鸞聖人は、越後の土豪の三善為教の娘「恵信尼」と結婚します。
 当時、比叡山の出家僧にも隠れて妻子をもつ僧が多々あったらしいですが、「僧」が公に妻子を持つことなどありえなかった。 ところが、親鸞聖人は、正々堂々と結婚生活をされるのです。

 「恵信尼」が晩年、末娘の「覚信尼」にあてた手紙の中で
「おもはいので宗祖に打ち明けたことはないが、私は宗祖のことを観音様の化身であると信じていた」と書かれているそうです。
 尊敬、尊重しあい、何とうるわしい夫婦愛。

 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

越後旧跡の旅 ご案内

2007年05月25日 | 行事・案内
 ご門徒の皆様にご案内 

 Kツーリスト 佐賀支店の企画で「親鸞聖人・恵信尼公 越後ご旧跡の旅」佐賀教区団体参拝の募集 案内が届いています。

 [募集要項]
期日:   平成19年7月17日(火)~7月19日(木)の2泊3日
募集人数: 40名
随行者:  佐賀教区教務所職員と添乗員
参加費:  9万円
申込締切: 平成19年6月22日

 [日程]
1日目 佐賀7:50ーー福岡空港9:10ーー中部空港11:25ーー常滑(昼食)ーー赤倉温泉泊

2日目 赤倉ーー居多ヶ浜(見真堂参拝・居多ヶ浜記念堂)ーー五智国分寺ーー恵心尼公廟所ーー高田・浄興寺ーー長岡・西照寺ーー草津温泉泊

3日目 草津ーー東京お台場(昼食)ーー羽田14:30ーー福岡空港ーー佐賀19:50 

となっています。

 ウチに参加申込書がありますので、ご希望の方は、お申し出ください
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コマーシャル

2007年05月25日 | 行事・案内
 親鸞聖人のご生涯をご案内している途中ですが、きょうは休憩、CMです。

 数日前から佐賀平野では麦刈りが始まりました。一面、美しい小麦色に実った麦が刈り採られています。気温も上がり、昨日は30℃を越えました。

 昨日のビハーラ活動・特別老人施設K苑訪問は、担当ご住職方が全員来られないので「坊守さん、よろしく~」と組内J寺若院さんから電話・・・ドキッ とした途端また、腰が痛くなってしまいました・・・(先日ほどは痛みが強くありませんが)

 というわけで、昨日のビハーラは、S寺坊守さんと二人でおつとめ、お話(法話もどき)をさせていただきました。 厚かましいオバサンは、ここでもしっかり拙著の宣伝をしてまいりました。

 この厚かましさゆえ・・・拙著「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館 の初版は売り切れ、このたび重版が出たようです(出版社から重版許可書類はまだ、届いてないのに・・・先に重版の本が出来てきたという連絡を昨日受けました
  本当に皆様に感謝、感謝です。
 こんな私めのために、お気遣いいただき、ご購入いただきました組内のお寺さん、直方のE寺さん、そのE寺さんのご紹介で300冊も買っていただいた小倉のS寺さん、法専寺ご門徒さんはじめ、ご同行の皆様、応援してくれた友人、有縁の方々・・・私が存じ上げない方々も・・・本当にたくさんの皆様のお蔭です。
 私ごときオバサンの駄本をお読み頂き、大変恐縮に存じます。厚く御礼申し上げます。 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師との別れ

2007年05月24日 | 仏教
 よき師、法然上人の下で、親鸞聖人は、幸せな(心穏やかな)日々を過ごされたのだろうと想像します。
 でも、幸せは長くは続かなかった・・・(何だかドラマ風ですが)

 戦乱や大地震など続く京の都で、不安な日暮らしを送る民衆の中に入って、 出家の僧だけが救われる仏道ではなく、「普通の家庭生活の中での仏道」
 それも、「念仏だけで救われる」仏道を説いた 法然上人ですから、大人気でした。吉水は大にぎわい。

 それを旧仏教側(奈良の興福寺や比叡山)は不快に思っていたのですね。
 修行もせずに、念仏だけで救われると説くなど、邪道だ 仏教じゃない と、朝廷に訴えていたのです。

 その頃、法然上人の弟子に住蓮、安楽という声明(しょうみょう・節のついたお経を称えること)が、すばらしい(声がよく、上手な)僧がおられました。
 その法座に、吉水の人気を聞いていた、後鳥羽上皇の女官数名が、後鳥羽上皇の留守の間に、参詣。
 住蓮さん、安楽さんは、たぶん声よし、姿よし、ご法話もお上手なイケメン僧侶であった・・(と、これはオバサンの想像・・・妄想)
 
 その法座に感動した女官たちが、そろって髪をおろし、出家してしまうのです。
 後鳥羽上皇は、激怒 旧仏教側からの訴えもあり、法然教団の解散と念仏停止が言い渡されます。
 
 住蓮さん、安楽さん他、合わせて4名の僧侶が死罪。法然上人は、土佐へ、親鸞聖人は越後(現・新潟県国府)へ流罪。1207年、法然上人75才、親鸞聖人35才の時です。

 これが親鸞聖人にとっては、師との別れとなりました。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑行を棄てて本願に帰す

2007年05月23日 | 仏教
 比叡山にて、二十年間もの仏道修行に励みながら、心の安住を得られなかった範宴(親鸞聖人)。 悟りを求め、命がけの修行をしても、よくよく自分の心を見つめれば、自分への執着心が、いかに根強いものであるか知らされるばかり・・・
 その範宴が、法然上人に教えを求め、上人のもとに何日も通いづつけます。
 
 法然上人の教えによって、乾いた砂に水がしみ込むように潤された。
 阿弥陀仏の本願の教えが身にしみて・・・「救われた」

「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」

 雑行=自分のはからいによるあらゆる行 を棄て、広大な阿弥陀仏の智慧と慈悲に帰依した 

 村上速水先生の言葉(中央仏教学院通信教育部1年次テキスト「真宗」)
によると
 「人間が人間世界の中に真実を求めていく教えではなくて、真実はすでに阿弥陀仏の本願として迷妄の人間にはたらきかけており、人間はただその本願に身をゆだねるほかはないという、他力の教えでありました」
 
 「自我のはからいを離れることのできない人間が、そのまま仏に はからわれて 生きていく世界でした」

 「人間にとって真実に生きる道は、真実なる仏の心をいただいて生きる以外にないという教えでありました」

 「そこから聖人の上に、順境も逆境も「ご恩であった」とうけとることのできる世界が開けました」

とあります。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出逢い

2007年05月22日 | 仏教
 きょうは法然上人のご紹介。

 法然上人は1133年生まれ。(親鸞聖人より、ちょうど40才年上です)
 父は美作国久米(現在の岡山県久米南町)の押領使(土地の豪族で軍事的官職)・漆間時国。 
 勢至丸(法然上人)9才の時、夜討ちで父を亡くすが、その時、父の遺言で僧侶の道へ。
 瀕死のお父さんの遺言とは、「怨みによって敵討ちすれば、また怨みの報復を受ける・・・おまえは仏門に入りなさい」という主旨のことを述べられたそうです。すばらしいですね。

 15才で得度、比叡山へ。(当時は比叡山が、仏教総合大学みたいな学問、研修道場だったのです)
「法然房源空」と名のり、それはそれは勉学されたようです。比叡山の智慧第一と称せられたくらい博識、優秀な僧でおられた。

 1175年、43才の時、ご自分が学ばれたあらゆる経典の中から、専修念仏の教えを選びとり、一般民衆を救うため、比叡山を下り、京都東山吉水にて「念仏の教え」を布教し始められます。(親鸞聖人3才の時)

 だから、9才の親鸞聖人が青蓮院で得度した時、法然上人は、すぐそばの東山吉水で、すでに「念仏の教え」を説かれていたのですね。
 それから、20年の歳月を経て、比叡山で絶望した親鸞聖人は、法然上人の下へ。上人と出逢われるのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする