お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

終末期医療を考える

2007年02月28日 | 仏教
 昨日のビハーラ講演会テーマは「安楽死」

 もはやどんな医療を施しても助からない場合、むやみに延命処置をうけて苦しい死に方はしたくないと思うのですが、そのためには本人の意志、家族の同意、医師との「あ、うん」の呼吸が必要だそうです。
 病院側は「生かしておいたほうが、ものすごい高収入」なんだそうです。でも、E 医師の病院では延命治療はしないとおっしゃっていました。

 本人の意志とは、元気なうちに「私は、延命治療を拒否します」の公文書を書いておくこと。病院側は「それがあると助かる」とE 医師は言われていました。

 私はすでに「尊厳死宣言書」なるものを書いて、子どもに知らせて、それを仏前に置いています。

 これは公証人事務所から母の知人がもらってきた用紙をコピーしたものですが、それに記載されている文章は次のようになっています。

      尊厳死の宣言書

私は、私の病気が不治であり、かつ死が迫っている場合に備えて、私の家族、縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言します。
この宣言書は、私の精神が健全な状態にある時に書いたものであります。
従って私の精神が健全な状態にある時に私自身が破棄するか、又は撤回する旨の文書を作成しない限り有効であります。

1,私の病気が、現在の医学では不治の状態であり、すでに死期が迫っていると診断された場合には、徒に死期を引き延ばすための延命措置は一切お断りします。
2,但しこの場合、私の苦痛を和らげる処置は最大限に実施してください。そのため、たとえば麻薬などの副作用で死ぬ時期が早まったとしても、一向にかまいません。
3,私が数ヶ月以上にわたって、いわゆる植物状態に陥った時は、一切の延命維持措置を取り止めてください。

以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望にしたがってくださった行為の一切の責任は私自身にあることを付記いたします。

                   年月日
自署    印   生年月日
住所

となっています。

 それから、E 医師が言われたことですが、意識のない状態の患者も耳は最後まで聞こえるそうですよ。家族、親戚が「患者ベッド横で無神経な話はしないように」とのことです。

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビハーラ総会

2007年02月27日 | 行事・案内
 きょうは午後からのビハーラ佐賀(ビハーラとは仏教版ホスピスのこと)総会に先立ち、例年通り朝10時前から、会員のYさんがご厚意で他会員のために、よもぎ餅作りをされるお手伝いに。

 Yさんはウチのご門徒さんではありませんが、同じ町内にお住まいの浄土真宗の他寺ご門徒さんで、このように手出しでボランティア活動をされておられる有り難い女性です。(寺関係だけでなく、町内のボランティアも)

 毎年、ビハーラ総会の日は、早朝から本願寺佐賀会館の台所で、もち米9升餅つき機でつき、ご自身が春に山で摘んできたよもぎの若葉をゆで、冷凍していたのを餅つき器に混ぜ、手作り絶品のよもぎ餅を作ってくださいます。(自宅からもち米他材料、餅つき器3台、他、昼食のうどん、つけもの、山菜総菜の用意まで大荷物を運んで来ての作業)

 私は、数人のビハーラ会員さん有志と共に、例年、つきたて餅にあんこを入れて、まるめるお手伝いをしています。きょうもおいしいよもぎ餅ができました

 このYさんは、ご法義理解といい、その行動といい、佐賀教区の宝物のような女性です。

 午後からの総会の後はE病院長のE医師による「ビハーラと安楽死」と題した公開講座。夕方まで興味深いお話を伺いました。(講義内容は明日ご紹介します)

 では、私は今から仏教讃歌のコーラス練習に行ってきま~す。と、いうわけで、きょうは一日、寺に不在でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本願寺佐賀会館 常例法座

2007年02月26日 | 行事・案内
 きょう午後、法専寺から7名(女性ばかり)で本願寺佐賀会館の常例法座にお参りしてきました。本願寺佐賀会館は本願寺の佐賀支店にあたる寺であり、佐賀教区の教務所(事務所)でもあります。

 毎月6,16,26日と6のつく日は午後1時半より常例法座が開かれています。毎回教務所の職員さん(自坊では、それぞれご住職・若住職であられる)方による正信偈のおつとめがあり、佐賀教区内の布教使さんによるご法話があります。
 毎回欠かさず参詣されておられる他組のご門徒さんもおられます。
 
 どなたでも気軽にお参り(ご法話を聞き)にお出かけください

 きょうのご講師は、長年お世話になっている組内のH寺前住職さんでした。どう見ても10才は若く見える85才。昨年はご体調がお悪かったとのことですが、声も相変わらすりんとしておられる。もちろん、頭もクリア。

 このH寺前住職さんはお寺に入寺された在家のご出身、とにかくよく勉強されておられます。お聖教の一節は何がどこに書いてあるか、きちんと把握されておられます。

 きょうもユーモア交えて味わい深いご法話をいただきました。

 ホント、組内、いや宗門の宝(人間国宝ならぬ人間宗門宝)です。まだまだ、組内の重鎮としてお元気でいてくださらねば・・・
 そして、私のような驕慢な者をしかってくださらねば・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干し柿

2007年02月25日 | 仏教
 私は甘~い、やわらか~い熟し柿が大好きなんですが、
 しばしば、布教使さんが、浄土真宗の「信心いただいた姿」を「干し柿」に例えて話されることがあります。

 干し柿は、元は、しぶ~い渋柿ですよね。それがお日様の光をうけ、やがて、甘い干し柿に変わる。

 柿(私)から渋(煩悩)を取り除いたわけではない。
 
 渋をもったままの柿が(煩悩をかかえた私のまま)、太陽(仏さま)の日差し(智慧の光)を受けて、やがて、渋柿(自己執着の強い私)が甘い干し柿(仏の心を喜ぶ・我執を離れた視点を心に持つ 私)に転じられる。

と言う例えです。

 私の場合、私自身が甘くおいしい干し柿に転じられるのではなく、太陽の光を浴びて、「みずみずしさを失い、単にしみ、しわが増え、ひからびた食えない干し柿だ」と陰口が聞こえてきそうではありますが・・・


  
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

字がヘタ

2007年02月24日 | 雑感
 お寺の住職は書道が必須です。
 
 前住職(義父)は、達筆でしたから、寺務の筆書きはもちろん、美しい字で色紙に法語を書いて、ご門徒さんにプレゼントしたりもしていました。

 しかし、我々夫婦は・・・
 毎年の年回表も、山門掲示板の法語もパソコン作成。
 
 でも、葬儀用の「白木の位牌」、過去帳だけは、手書き以外どうしようもない。
 夫も継職して(住職継いで)間もなくは下手でしたが、やはり、慣れか、それなりには・・・

 もっとヘタなのが私。今まで夫の出張中などで数回代理で葬儀をつとめましたが、何がイヤかと言えば、葬儀用の「白木の位牌」に法名を筆書きすること。

 初めての時は、白木に鉛筆でそっと下書きして・・・慣れない筆を握ったものの、下手な上に緊張でふるえて、ひどい字になり、泣きたい気分。通夜・葬儀の間大勢の方がご覧になるわけで・・・それに、何より故人に対して、失礼で申し訳ない気分で・・・

 ちゃんと、練習しなきゃ・・・と思いつつ、していません。

 卒塔婆に筆書き仕様の機械が発売されているのをテレビで見ました(浄土真宗では卒塔婆は立てません)が、葬儀の白木の位牌用が発売されたとは、聞いたことがありません(大きさもまちまちだし・・・無理かな)。

 いや、やはり、美しくなくても、それなりに・・の字が書けるように練習しよう
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いずれの行も及び難し

2007年02月23日 | 仏教
 一般の仏教と親鸞聖人の仏教の違いは

 一般の仏教では、仏に成るための行(ぎょう)が重んじられる のに対し、親鸞聖人の仏教は「いずれの行も完遂できない」」というのが根本の立場です。

 仏教ですから、わたしが「仏」を目指すのは、一般の仏教と同じですが、行を大切にするか、行を捨て去るか、の大きな相違があります。

 もちろん、お釈迦様のたくさんの教典の中から、阿弥陀仏の救済を説かれた浄土三部経を選びとり、勧めてくださったのは、法然上人です。

 比叡山で智慧第一と言われるほど仏教学問を極められた法然上人が、我々一般人が救われるのは、阿弥陀仏にお任せするしかない。そのためには「努めて念仏を称えなさい」と説かれた。

 その弟子が親鸞聖人なんですが、同一の立場でありながら、微妙に違うんですね。

 法然上人の念仏は、他力(仏さまのはたらき)7割、自分の行として称えるのが3割・・・と、ある勧学さんの講義で聞きました。 

 親鸞聖人の念仏は、100%他力。念仏を称えることにすら執着しないんです。
 自分の「行」は徹底的に排除。 無行に徹するところが、親鸞聖人の仏教です。

 「いずれの行も及び難き身なれば・・・」

 だから、浄土真宗の念仏は、ただ、ただ感謝の念仏であります。

 私みたいなゴーマン・テキトーなのが僧侶に成らせていただけたのも、この教えのお陰・・・ 南無阿弥陀仏
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仏道修行

2007年02月22日 | 仏教
 龍谷大学教授で勧学(真宗の学問を極められた最高位)でおられる浅田正博先生の著書に書いてあることです。
 浄土真宗では「修行」はないのですが、浅田先生は他宗の厳しい修行も体験されておられます。その当時のエピソード。

 網代笠(あみじろがさ・大きなすり鉢のような、顔がすっぽり隠れるかぶり笠)をかぶり、托鉢(たくはつ・お布施をいただきながら町中を歩く)修行をされた時のこと。
 網代笠をかぶると前がよく見えない。どうしてこのような物をかぶって歩くのか疑問に思っていた時、ミニスカートにハイヒールの女性が前に立ち、布施をされた。
 思わず無意識に目を上げた・・・が女性の顔は見えず、見えたのは網代笠の裏側。「しまった」布施者に対して心が動いてしまった、それも「考える前に目が先に上を見ていたから始末が悪いと思いました」と。

 ある時は紳士が前に立ち、お札を布施された。いつも硬貨ばかりで初めてのお札だったので、その時も思わず施者の顔を見ようと目を上げ、「しまった。今度はお金に執着してしまった」と思われたそうです。

 「網代笠の中は私に多くのことを教えてくれました」とあります。

 くわしくお読みになりたい方は、浅田正博 著 「私の歩んだ仏の道」本願寺出版社 をどうぞ。

 「雲水(うんすい・修行僧)」は「雲のごとく行き、水のごとく流れる」という意味だそうです。とらわれのない境地。

 「1億円いただいても、1円いただいても『ありがとう』と同じ気持ちで心底お礼が言えるような境涯にいつ至ることが出来るだろうか・・・」(著書より)

 私なんぞ絶対無理です 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丁度よい

2007年02月21日 | 仏教
 以前、ウチのご門徒さんには、何かの法座の折ご紹介しましたが、石川県の真宗寺院の坊守さんである藤場美津路さんの詩をご紹介します。

   「仏様のことば(丁度よい)」  藤場美津路

 お前はお前で丁度よい
     顔も体も名前も姓も
 お前にそれは丁度よい
     貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
     それはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも
     悲しみさえも丁度よい
 歩いたお前の人生は
     悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
     地獄へ行こうと極楽へ行こうと
 行ったところが丁度良い
     うぬぼれる要もなく卑下する要もない
 上もなければ下もない
     死ぬ月日さえも丁度良い
 仏様と二人連れの人生
     丁度良くないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時
     臆念の信が生まれます
 南無阿弥陀仏
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おごり、高ぶり

2007年02月20日 | 仏教
 きょうは午前中、真宗講座へ。僧侶のための講座なので、ちゃんと輪袈裟・衣姿で受講。
 N先生による仏教概論。釈尊入滅後の結集(経典編纂)~戒律の解釈をめぐる教団分裂~大乗仏教 世親さん(5世紀)がまとめられた教義まで。
 見ただけで目眩のしそうな倶舎論の解説表。「トイレにはって眺めていたら5年ぐらいで何とか覚えるだろう」とN先生。勧学寮の試験など受ける気のない私は、当然覚える気がないんだけど・・・

 身の程知らずに、軽い気持ちで受講していましたが、きょう、5月末には3種類のレポートを提出しなければならないことを知り、ドキッ

 きょう習ったことをここでご紹介したくても、本人がよくわかってないので、代わりに、講義中聞いた中でなるほどと思ったことをご紹介します。

 「おごり、高ぶりの心」を「憍慢(きょうまん)」と言います。

 「慢」は先日(1月末頃)ここでご紹介した、慢心=自分を人より上に見たがる心ですが、
 「憍」は、慢心とはちょっと違って、直接自分とは関係ないことで自分を上に見せたがる心なんですって。

 例えば、有名人の名前を出して「自分は○○を知っている」と誇らしげに言ったり、夫や子どもの地位・名誉・学歴を鼻にかけ、自分も偉くなったように思うこと。自分本人は何も関係ないのに・・・

 ブランド品で身を飾り立てるのも「憍」の心なんですって。確かに本人の中身とは関係ないもので、人の優位に立ちたいという心なのか・・・

 あ、もちろん、「よい製品を大切に長く使いたいから」と理由で購入なさるブランド品は結構でございますよ。あるいはお金持ちの方は日本経済のためにどんどん高級品を購入してくださらなければ・・・

 私は「身の程にあっているので・・・」と、ユニクロを着る正当な理由を聞いたと喜んでいるのであります。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腕輪念珠

2007年02月19日 | 仏教
 暖かい冬が続いています。草取りに忙しくなってきました。
 きょうは、楽しみに受講している真宗講座の日だったのですが、お葬式が入りパス。

 ところで、念珠(数珠)には、普通の念珠の他に腕輪(ブレスレット)タイプの念珠もあり、私もお寺の会合などの折、腕につけて出かけることがよくあります。

 時々、若いのに腕輪念珠をしている人を見かけ、「へえ、仏教に帰依しているのかしら? 若いのに感心」なんて思っていたら、そうでもなかった。

 単なるファッション、つまり装飾としての念珠タイプのブレスレット。
 あるいは石に不思議なパワーがあって(?)魔除け・あるいは健康のため着用。

 う~ん、念珠をして魔除けになるのなら、寺関係者は交通事故にも災害にも遭わず、病気にもならないはずだけど、残念ながらそういうことはあり得ない。
 
 いつも念珠をしている僧侶が、金運がよくなることもない。生牡蠣、電信柱にあたっても、宝くじに当たることはない。(買わないから当たるはずもないが・・・)

 そういえば、総代のM・M氏は「宝くじで3億円当たったら、1億円を寺に寄付する」と言われて、もう何年も楽しみに待っているんだけどなあ

 念珠は魔除け・幸運を呼ぶ「おまじない」ではなく、仏を敬う法具であります。

 

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする