晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

飯盛山(12) 西光密寺(4) 7/12 

2013-07-13 | 飯盛山

2013.7.12(金)晴れ

 飯盛山や飯地名の重ねているが、肝心なことが出来ていないことに気づく。その地の歴史や民俗学的なことをいくら調査しても、そこにレイライン(注1)を引いてみなければ「飯の山」の謎には迫れない。実は本を読んだり、地図を買ったり下準備はしているのだけれど、未だ1本もラインは引いていないのだ。従って飯盛山西光寺についてもいったんここで筆を止めて、改めてラインが見つかった時点で再開したいと考えている。
 荒井神社は西光寺の参道入り口の横にある古社である。
創建は不詳だが、「三代実録」に元慶六年(882)の項に丹波国の荒井神の記述が有り、かつての志麻郷であり、式内社嶋物部神社に比定されているという。祭神は荒魂神だが、元は宇摩志摩遅命(うましまじのみこと)という説もあるようだ。(荒井神社誌等)いずれにしても物部氏とゆかりがあることは確かなようだ。P1040786





  飯盛山の付近に物部氏縁の神社などがあるというのは口頭で聞いただけで、正式な文献では見たことがない。ただ豊岡市の飯谷(はんだに)を訪れた際に、韓国神社の祭神が物部眞鳥であり、かつては物部神社であったということだった。
 今は飯盛山の麓にある荒井神社が物部氏縁の神社であることだけを憶えておこう、いつか何かの参考になるかもしれない。
 もう一つの気になる情報は、某HPで見つけたものでソースが不明なのだが、荒井神社はもともと現在地の上方600mの山稜にあり、その地はなんと例の鏡の設置された西南戦争の慰霊碑、明治記念碑の位置だというのである。この情報は再確認する必要があるが、もし事実の事であったら、飯盛山、飯盛山西光寺、明治記念碑、鏡通信、荒井神社、物部氏などのアイテムが微妙に関連してくるようにも思えるのである。
 明治記念碑に鏡を設置したのはなぜか、その反射光が老の坂で見ることが出来るというのは単なる偶然なのか、謎は深まるばかりである。
 当初の目的であった盃状穴は荒井神社で確認できなかったが、実はちょっとした発見があった。
2012.9.14、三和町菟原中の八幡社を訪れた際に本殿脇で見つけた奇妙な鉄片3個のなんたるかがわかったのだ。(2012.9.16参照)
P1020728



この写真を持ち歩いて聞いて廻ったのだけどわからなかった。

 神社には何とも奇妙なものがあるものだ、ところがわかってしまえばなんてこと無いものばかりなんだが、判明するまではとんでもない想像をしてしまうものである。その鉄片は今まで誰に聞いてもなんだか解らなかった。古代の鉄鋌(てってい)つまり鉄の地金に形が似ていたので、明治以降の当地の鍛冶屋が仕入れていた地金を奉納したのではないかとまで想像してしまった。
 答えは一目瞭然、石材を繋ぐ金具で蝶板とでも言うのでしょうか、これが荒井神社の鳥居の台の部分にあったのだ。なるほど。

P1040785P1040784


 
 

わかってしまえば、なんだって事になるんだが、、、。
 
(注1)レイライン(Lay Line):古代の遺跡や古墳、寺社、磐座などが直線上に配置されているという説があり、その直線をレイラインという。

【作業日誌 7/12】
ドッグランど、フェンス網張り1枚、デッキ下網張り2枚

【今日のじょん】ドッグランどの柵作りがいよいよ大詰めに来ている。飛び越える高さとかくぐり抜ける穴とか、じょんではちっとも参考にならないのだ。やはり来じょんするワンコは小型犬が多く、とにかく走り回るので何が起こるか分からない。P1040826

 

床下、狭いとこでもふさいでおかないと、、、

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