2011.8.19(金)曇
8月16日には大唐内~胡麻峠~三国岳~丸山のコル~大唐内の谷というコースを歩き、今日は自転車で市茅野を訪れた。
大唐内に日本海からの文化が入ってきたとすると、それは胡麻峠もしくは猪鼻峠しかない。足で歩いて目で見ておかないと構想が沸かない。
胡麻峠の首なし地蔵。博打打ちが縁起担ぎのため首をもいでいくという説がある。一概に廃仏毀釈のせいではないようだ。
胡麻峠は舞鶴側から登らないとその目的は達せない。胡麻峠の由来は多門院(たもんいん)の胡麻にあると思われる。いづれ訪れたいと思っているが、多門院といえば佐渡の金山で百足を祀っている寺が多門院であったことを思い出す。百足は毘沙門天の使いで、鉱山に所縁のあるものである。舞鶴の多門院も調べると毘沙門堂などが出てくる、黒部、佐武峠などの地名と合わせて鉱山、金工に関係があるのかも知れない。また、胡麻峠からのもう一つの行き先は与保呂(よほろ)である。変わった地名だとは思っているのだが、いつか調べてみたい。
胡麻峠から少し三国岳によったところから多門院、与保呂は左手下方で見えない。
この与保呂川を下ったところに行永(ゆきなが)、金屋町などの地名がある。以前に行永は近江の製鉄豪族息長氏に関連のある地ではないかと言うことを書いたことがある。その行永に国松姓であった知り合いがあり、「元々は鍛冶屋をやってなかったか」と聞いた。「そうなんや、おじいちゃんにきくと元々は鍛冶屋だったらしい」という返事、私はあまりに推理が当たったのに驚いた。鋳物師というのは一国一座の決まりがあり、何鹿郡には上林の清水村、加佐郡は引土村にあったという。清水村では井関家が、引土村では国松家がその任に当たっていたという。西舞鶴の引土から分家などの形で行永に移ってきたのだろうと思うが、やはりそこには金工の素地が行永にあったのだろう。行永と清水は菅坂峠を挟んだ山向こうなのである。
ちなみに南丹市日吉町の胡麻も鋳物師の村なのだ。胡麻新町の勝田家がそれにあたり、河内国丹南郡日置荘の鋳物師国次の子孫であるということだ。有名な國友銃砲火薬店ももとは國友鉄砲鍛冶である。国の付く姓は鍛冶に関係があるようだ。胡麻周辺は戦中戦後丹波マンガンで沸いた地であるが、地名などで見ても古代の金工の地であることが想像できる。
向こうの山裾辺りが胡麻新町だが、清水という地名があるのは偶然だろうか。
そうなると多門院の胡麻、胡麻峠の胡麻も前回までに述べた三つの説以外になにか由来があるのかも知れない。ただそれは今のところ解らないので地形説を念頭に置いて現地を訪ねてみたいと思っている。(大唐内のこと(69)は2011.7.23)
【作業日誌 8/19】
ネギの畝作り
薪割り
今日のじょん:昨晩むね肉ジャーキーを焼いて貰って、少しお相伴したらしい。そして今朝、古いジャーキーが三切れほど残っていたので、ぽんぽこぽんのご褒美にやったら、ペッと吐き出しやがんの。新しいジャーキーが昨晩焼けたことを憶えているのだろう、あなどれないねえ。
カトちゃんペッ
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