晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 鉄と俘囚の古代史 (再読-4) 9/9 

2012-09-09 | 雨読

2012.9.9(土)晴れ

 菊池山哉の俘囚移配地説の根拠第七に近畿以東の別所の鎮守は決まって白山権現であると書かれている。ところが白山権現が鎮守であればなぜ俘囚移配地なのかの説明はない。かなり注意深く読んだつもりなのだが、見当たらないのだ。
 「鉄と俘囚の古代史」の中にも、各地の別所を紹介するときにこの地には白山神社があると盛んに述べられているが、そのことが俘囚移配地である証拠とはならない。むしろ別所が俘囚移配地というのなら、なぜ西国の別所には白山神社がないのだ。
わたしは白山信仰は俘囚移配とは違ったところの原因とか理由があるのではないかと思う。
 もうひとつの東光寺であるが、これも菊池氏の根拠第九に書かれ、慈覚大師建立の寺が東国では東光寺と呼ばれるという風にある。このことが俘囚移配の根拠になるかといえば、「円仁慈覚大師が俘囚教化のために東国を巡錫して仏堂を建立した事実があったからだ。」と書いている。P1020668
 



藤原期の蔵王権現、十一面観音が安置されている、高野山真言宗那智山願成寺
(綾部市別所町)歴史のある地だ。

 こんなとき「天台宗・円仁 来年1150年御遠忌」という新聞記事を見つけた。(讀賣新聞2012.8.31)遣唐使として唐に渡り、様々な苦労の末帰国、やがて天台座主となるその内容が記されているのだが、渡航前の活動で東北地方に所縁があるようだ。山形県の立石寺(りっしゃくじ)、平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)なども円仁開基といわれている。830年天長の大地震でも出羽、陸奥に向かったという。つまり平安時代の東北に所縁のある僧で有ることは間違いが無い。本書の中でも貞観二年(860年)に武蔵、上野国などに行っていることを紹介している(日本三代実録)。しかしながら俘囚教化のためというのはどこにも現れず、別所に東光寺があるからといって、俘囚を移配したという証拠にはならないのではないだろうか。
 もちろんその根拠というのは沢山示されているのだが、あくまで情況証拠という感じで、確実な証拠とはいえないのではないか。つづく
(鉄と俘囚の古代史 再読-3は2012.9.6)

【作業日誌 9/9】
ジャガイモ植えつけ(ニシユタカ、アンデスレッド)

【晴徨雨読】40日目(2006.9.9)酒田連泊
芭蕉と森敦の足跡を追って文学の旅をする。鐙屋(あぶみや)はそのどちらもが関係しており、興味深い訪問であった。小説でも俳句でもその現地を見るということがいかに感動深くなり、印象にも残るということがよく解った一日であった。本間美術館では浜田知明展をやっており、翌年熊本県立美術館で再会することとなる。Img_0587

真桑の句会、不玉亭
初真桑 四つにや断ン 輪に切ン  はせう


【今日のじょん】:強者どもが夢の跡。P1020685

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