2017.7.17(月・祝)晴れ
日照山高山寺は「賽(西院)の河原」の旧跡と言われる。三途の川の河原にある賽の河原がなぜここなのか。本尊が子安地蔵というと言うこともあるが、西院(さい)の地名と言うこともあるだろう。西院は淳和院の呼び名であって、これはこの世とあの世の境となる賽(さい)とは無関係だと思う。ところが少し西に平安京の道祖(さい)大路(現在の佐井通り)があるものだから話は余計複雑になる。
高山寺には立派なお地蔵さんがあって、地蔵詣りで賑わったそうだ。
なにが複雑かって、洛中洛外の境でもないのに道祖大路が通っていること、淳和院が西院(さいいん)と呼ばれていること、高山寺に賽の河原旧跡があること、最勝河原の三昧(火葬場)が存在したこと等である。もちろん時代的には差異があるのだけれど、共通するのは葬地としての西院界隈を思わせることである。
西院界隈の三昧として確実に存在した最勝河原は中世以降の葬地であると考える。京師五三昧のうち最勝河原と四塚の狐塚は平安京の洛内である。従ってこの2カ所は比較的新しいと「京師五三昧考」の勝田至氏も書いておられる。ところが京都地名研究会編の「京都の地名検証」佐比川(右京区)の項に「平安時代の初期は、西院付近は葬送の地であり、その後平安京の右京は次第に荒廃し、広い河原となり、人々はその河原を西院の河原と呼び云々」とある。794年に平安京が遷都され、淳和天皇は833年に譲位し淳和院に住居したという。これは将に平安時代の初期であって、西院の地が葬地であるはずがないと思えるのである。
ネットで「賽の河原」や「西院」を調べるとやはり平安時代から西院は葬送の地と書かれているものが多い。その根拠とされているのが貞観13年閏8月28日付の官符となっている。こんな正式の文書で言われているのなら仕方ないなと思っていたところ、角川の地名辞書にこの官符のことなどが書かれていた。
佐比(さい)が葬地であることは違いないのだが、それは西院ではなくて、道祖大路(佐井通り)を南に下がり洛外に出たさらに南、現在の南区吉祥院あたりになるという。ようやく探し当てた古地図には上佐比里、下左比里、佐比津などが描かれ、佐比寺という寺院まで描かれている。この地こそ平安時代の葬地であったわけだ。「京都の地名検証」の著者は西院とこの佐比を混同してしまったのではないだろうか。
道祖大路の南の端に佐比があると言うことは、元々佐比があって、その真北に道祖(さひ)の通り名が付けられたのではないだろうかと想像もするところである。つづく
次の四塚(南区)には山崎くんも登場しますよ。
引用の古地図には佐比寺の位置も記載されているのでしょうか?
何という地図で、何を見ればお教えいただいたら幸いです。
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