晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 酒呑童子の誕生(2) 12/9

2010-12-11 | 歴史・民俗

2010.12.9(木)雨

 ここで思い起こすのが、「蛇」(吉野裕子著)と「知られざる古代 謎の北緯三四度三二分をゆく」(水谷慶一著)といういずれも雨読で紹介した2冊の書なんだが、どちらも民俗、歴史に関する書で金属とは切っても切れない地域、項目を主題としながらも金属についてはまるで無視している2冊なのである。後者については真弓常忠氏が「古代の鉄と神々」の中で徹底的に批判されているので、これも雨読の中で紹介している。これらの本に出合って、アンチ金属という立場を取ることによって研究者、或いはライターとしての特異性とか独立性を強調しているのかなあという穿った見方をしてしまうのだ。この2冊が無視という立場を取っているに比して、高橋氏は鉱山師や鍛冶職が酒呑童子説話の発生論として問題にならないとして否定している。あとがきの中で、「ここまで本書を読んでこられた読者には、その理由も明らかなはずである。」と述べられている。私には少しも明らかでないのだ。Img_1917

アンチ金属三部作。


 大江山には現に鉱山があるではないかという声に対して、日本冶金のニッケル鉱山のことを書いておられるが、これはニッケル鉱山が近世のもので、説話の原題となるべき古代の鉱山とは無縁であるとおっしゃりたいのだろうか。大江山の鉱山は与謝野町側のニッケル鉱山と福知山市側の銅、鉄の河守鉱山があり、タタラ跡なども多く見られるそうだ。ニッケル鉱山の存在を持って、大江山の鉱業が近世のものと思わせるのは詭弁としか思えない。
Img_2913
このズリの下にも過去の金属の遺跡が埋もれているとか聞く。
河守鉱山跡。


 本書と相反するのが、「鍛冶屋の母」(谷川健一著)(雨読2010.11.9)である。
鬼=鉱山師、鍛冶師というのはもっとも理解しやすい構図であると思う。酒呑童子伝説の形跡のあるところが弥彦(新潟県)や伊吹(滋賀県)など古代の重要な銅や鉄の生産地であることは見逃せない事実であるし、大江山もけっして近世にはじまった鉱山ではないだろう。そして私も予想していたことだが、山城国境の大江山(大枝)にも鉱山の形跡があるそうだ。(西丹波秘境の旅・澤潔著)終

今日のじょん:今日は久々にお留守番をした。天気が荒れそうで心配なので、ペットゲートを開けておいたが、果たして大荒れで雨風、雷まであったそうだ。心細かったと思うが、いくみちゃんが来たので、すっとんだみたいだ。

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