古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

「日中戦争を終らせたい」 …… 西村京太郎の思い

2020年12月12日 02時29分10秒 | 古希からの田舎暮らし
 西村京太郎の思い …… 日中戦争を、石原莞爾の力でやめさせたかった。
「だれか」が働くとすれば「停戦」に働くのは石原莞爾の他は考えられなかった。
 陸軍の中央/首脳は、内心では日中戦争をやめてかった。だが戦争をやめようとすると「ここでやめたら、戦死した英霊に申し訳ない」と、ずるずる戦争を続けた。
 陸軍が「蒋介石の軍隊なんか一撃で倒せる」と豪語した中国軍は奥に逃げ、国際世論は日本を非難し、英米は武器を援助し、日本軍をいくら投入しても広い中国を支配できなかった。
 要するに「大きな軍隊になって戦争したくなり、日中戦争をはじめ、太平洋戦争に突入した」。
 あの敗戦のとき東京幼年学校生だった西村京太郎は「オリンピックを口実に停戦できていたら、太平洋戦争にならなかったかも」と空想したであろう。それを90歳のおじいさんになって本に書いた。
 
 あの敗戦のとき少年だった人たちは、あの軍隊上層部がやったことを生涯にわたって「告発」しつづけている。
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、小学校6年(当時は国民学校)ブラス高等科2年で、14歳で入隊した。「志願した」というが14歳の子どもを学校や行政機関がたぶらかすのはたやすい。彼らは、鉄砲に模した「鍬の柄」をかつぎ、行進して満州に渡った。そしてソ連軍が攻め入ったら防波堤になるような「辺境の地」に入植させられた。
 敗戦直前、ソ連軍が攻めてきたら軍隊は日本人入植者を「棄民」した。入植者の成人男子は敗戦直前の8月になって召集された。そしてシベリヤに抑留された。青少年義勇軍の少年たちはソ連軍や中国の人たちに追われて逃げまどい、死亡した。80000人の少年が義勇軍として渡満し、25000人が飢えや襲撃で死亡した。
 健康な十代の少年は「もっとも命の盛んな」ときだ。どんなことをしても生き延びる「知恵」と「生命力」をもっている。その少年たちが死なねばならぬ苛酷な場面は、思い描くのもつらい。少年たちは、どれだけつらい状況を生き延びて帰国したか。
 彼らは、戦争をした国家にたいして、大人たちにたいして、生涯にわたって、いいつづけている。
 関西弁でいうなら「どないオトシマエつけてくれるんや!」。
 ぼくは、敗戦のとき7歳だった。田舎の山奥で暮らしており、空襲にも遭わなかった。
 もし10年早く生まれていたら、「愛国少年」になっていたか。何かに志願していたか。
 あの戦争のことを読むと、気持ちがザワつく。この思いは生涯変わらない。
 

 
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