やっと雨がやんだので、公民館まわりの草刈りを少ししました。道子さんも来て、きれいに掃いてくれました。あと、鉢植えの花をあしらえばいい感じになるでしょう。畑にも寄りましたが畝間に雨水がたまり、仕事になりません。まだ稲刈りのすんでない田んぼもあるのに、コンバインが動けません。なんとか晴れてほしいです。
父の『引揚げ記』 (12) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
「ちょっと待て。お前は京城に行く道を知っているか」と云う。
「知らない」と答えると、
「この道を行けば鉄原を通らねばならない。鉄原にはもうソ聯兵が入り込んでいるから、途中で山越えをして連川という所へ出なくてはならない」と教えてくれる。
「お前は朝鮮語を知らないな」
「連川に行くにはどう行けばいいか」という朝鮮語を、何度も、何度も云ってていねいに教えてくれた。
暫くその言葉を覚えていたが、歩く事に紛れて忘れてしまった。
それからどのくらい歩いたかわからないが、もうへとへとで足が動かなくなる。歩いても歩いても、家はなく道は暗く、今夜一夜眠る家とてない。朝まで歩くつもりであったが、もうこれ以上歩けない。道端の草の上に横になって静かに目を閉じる。
風の音がざわざわと音を立てて、疲れている筈なのに眠れない。私の体の上を烈しく風が吹いてゆくので寒くなる。そのうち間もなく眠るにちがいないと思ってじっと目を閉じていたが、ぽつぽつと雨が落ちてくる。こうなれば寝てはいられない。
次のまで行ってそこで休ませてもらはねばならない、と歩き出す。次のまでどれ位歩けばいいのかもわからない。それでも歩かねばじっとしてもいられない。雨の中を足を引きずり歩く。はいている地下足袋は水を含んで重くなり、背のリュックも水に濡れて重くなる。岩陰でもあれば少し休むのであるが、その岩陰もない。
それからどれ程の時間歩いたかわからないが、やっと一軒の家に辿りついた。もう夜も大分更けているのだから、起こしてもここの人は起きてくれまい、宿を頼んでも泊めてくれまい、なにしろ朝鮮人には敵国となった外国の人だから。
せめて雨のかからないところに入ろうと、その家の軒下に入り込み、横になることもできないでうずくまっていると、雨だれがぴしぴしと跳ね返って顔に当たる。肌を雨が伝って流れる。そして前からも雨がかかる。
でもどうする事もできないので、背のリュックを下ろし、その上に腰を下ろして眠ろうとするがなかなか眠れない。仕方なく今度はぬれた地べたに腰を下ろし、リュックにもたれかかって眠りにかかる。それでもさすがに昼間の疲れが出て少しうとうとする。
ふと目を覚ましてみると、あたりは真っ暗であるが、幸いにも雨はやんでいた。稍疲れが回復したのでまた歩き出す。
少し歩いていると、五、六軒の家が集まって建てられている朝鮮人の家がある。そこの縁(朝鮮の家の前にはみな『縁』がある)に無断で横になってぐっすり寝込んでしまった。人声がするので目を開けてみると、もう明け方になっていて、私の周囲を数人の人が朝鮮語で何やらささやき合っている。
「京城に行くにはどの道を行けばよいのか」と尋ねても誰も答えてくれない。朝鮮人は顔を見合わせているばかりである。
私が困っていると一人の男が出て来て、
「あなたは日本人ですね」ときいてくる。
「はあ、京城に行きたいのですが、その道がわからなくて困っているのです」
「実は私も戦争が終るまで日本の徴用に使われていて、今やっと帰って来たのだ。日本はえらい事になりましたなあ」と同情して慰めるように云う。
「全くです。もうソ聯兵がすぐ向うのまで入って来ているそうですよ。今日はこのまで攻めてくるのだそうです。だからあなたがソ聯兵に見つかるまいとするなら、これから少し遠いがすぐ山の中に入って山越えをしなくてはなりません」
とくわしく道順を教えてくれた。
私は教えられた通りの山道を、雨にぬれた道に足をとられて滑りながら、雨で重くなったリュックを背負って進んで行くと、山の中に一軒家があってそこに若い青年が佇んでいた。私はお腹がすいてたまらないので、
「お米を炊いてくれないか」と話し掛けた。
「お米は持っているか」と若者は日本語がわかり、親切である。
「ここに持っている」と米を差し出すと「ではこちらに入って待っていて下さい」と家の中に案内してくれた。しばらく待っているとその若者が熱いご飯を持って出てきた。 (つづく)
父の『引揚げ記』 (12) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
「ちょっと待て。お前は京城に行く道を知っているか」と云う。
「知らない」と答えると、
「この道を行けば鉄原を通らねばならない。鉄原にはもうソ聯兵が入り込んでいるから、途中で山越えをして連川という所へ出なくてはならない」と教えてくれる。
「お前は朝鮮語を知らないな」
「連川に行くにはどう行けばいいか」という朝鮮語を、何度も、何度も云ってていねいに教えてくれた。
暫くその言葉を覚えていたが、歩く事に紛れて忘れてしまった。
それからどのくらい歩いたかわからないが、もうへとへとで足が動かなくなる。歩いても歩いても、家はなく道は暗く、今夜一夜眠る家とてない。朝まで歩くつもりであったが、もうこれ以上歩けない。道端の草の上に横になって静かに目を閉じる。
風の音がざわざわと音を立てて、疲れている筈なのに眠れない。私の体の上を烈しく風が吹いてゆくので寒くなる。そのうち間もなく眠るにちがいないと思ってじっと目を閉じていたが、ぽつぽつと雨が落ちてくる。こうなれば寝てはいられない。
次のまで行ってそこで休ませてもらはねばならない、と歩き出す。次のまでどれ位歩けばいいのかもわからない。それでも歩かねばじっとしてもいられない。雨の中を足を引きずり歩く。はいている地下足袋は水を含んで重くなり、背のリュックも水に濡れて重くなる。岩陰でもあれば少し休むのであるが、その岩陰もない。
それからどれ程の時間歩いたかわからないが、やっと一軒の家に辿りついた。もう夜も大分更けているのだから、起こしてもここの人は起きてくれまい、宿を頼んでも泊めてくれまい、なにしろ朝鮮人には敵国となった外国の人だから。
せめて雨のかからないところに入ろうと、その家の軒下に入り込み、横になることもできないでうずくまっていると、雨だれがぴしぴしと跳ね返って顔に当たる。肌を雨が伝って流れる。そして前からも雨がかかる。
でもどうする事もできないので、背のリュックを下ろし、その上に腰を下ろして眠ろうとするがなかなか眠れない。仕方なく今度はぬれた地べたに腰を下ろし、リュックにもたれかかって眠りにかかる。それでもさすがに昼間の疲れが出て少しうとうとする。
ふと目を覚ましてみると、あたりは真っ暗であるが、幸いにも雨はやんでいた。稍疲れが回復したのでまた歩き出す。
少し歩いていると、五、六軒の家が集まって建てられている朝鮮人の家がある。そこの縁(朝鮮の家の前にはみな『縁』がある)に無断で横になってぐっすり寝込んでしまった。人声がするので目を開けてみると、もう明け方になっていて、私の周囲を数人の人が朝鮮語で何やらささやき合っている。
「京城に行くにはどの道を行けばよいのか」と尋ねても誰も答えてくれない。朝鮮人は顔を見合わせているばかりである。
私が困っていると一人の男が出て来て、
「あなたは日本人ですね」ときいてくる。
「はあ、京城に行きたいのですが、その道がわからなくて困っているのです」
「実は私も戦争が終るまで日本の徴用に使われていて、今やっと帰って来たのだ。日本はえらい事になりましたなあ」と同情して慰めるように云う。
「全くです。もうソ聯兵がすぐ向うのまで入って来ているそうですよ。今日はこのまで攻めてくるのだそうです。だからあなたがソ聯兵に見つかるまいとするなら、これから少し遠いがすぐ山の中に入って山越えをしなくてはなりません」
とくわしく道順を教えてくれた。
私は教えられた通りの山道を、雨にぬれた道に足をとられて滑りながら、雨で重くなったリュックを背負って進んで行くと、山の中に一軒家があってそこに若い青年が佇んでいた。私はお腹がすいてたまらないので、
「お米を炊いてくれないか」と話し掛けた。
「お米は持っているか」と若者は日本語がわかり、親切である。
「ここに持っている」と米を差し出すと「ではこちらに入って待っていて下さい」と家の中に案内してくれた。しばらく待っているとその若者が熱いご飯を持って出てきた。 (つづく)