古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の『引揚げ記』 (6)

2017年10月12日 02時06分12秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 うちの村の公民館が投票所になる。草が生えてるし前庭の花も枯れている。他所の村の人も投票に来るのできれいにしたほうがいい。老人会できれいにしようと、まずぼくが前庭の草を、きのうナイロンコードで刈りました。あとは数人の老人会仲間にも声を掛けて草刈りをします。畑の草も伸びてきました。畔の内側の遊歩道スペースも草が伸びています。草刈りにも精を出さなくては。


     父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で     (6)
 
 私は約束を無にされた事に腹を立てながら駐在所を離れる。
 今は天下に唯一人。敵の中に残された唯一人、思ひは遥か日本にはせながら、ひたすらに伊川へ伊川へと足を運ぶ。西面から伊川まで約15キロメートル、唯ひたすらに足を運ぶ。
 途中まで来ると、人気のない川原で駐在所一家の人々が朝の食事の真っ最中であった。聞けば家に居ては危険が迫ったので、命からがらここまで逃げて来たというのである。地べたに座る所もないので、皆が立ったままおにぎりを口に投げ込んでいた。母はおひつを抱えて、おにぎりを握っている。それを父や子供たちが受け取ると、次々と食べている。この広い天下に、座って食べる事のできないこの哀れさ。敗戦国日本の人々であった。
 昔国史で教わった七部卿の都落ちも、ちょうどこんなであったのではなかろうかと、つまらない感傷にふける。
 朝早く朝鮮の人々が駐在所に押し寄せてきて、主任は朝鮮人にさんざん殴られたという事であった。そう聞くと約束を無にした事も仕方がなかったんだと納得がいく。
 駐在所一家の朝食が終わると、いよいよ伊川への出発である。主任を中心にしてその後ろに奥さんと子供四人、それに私を加えて計七名の日本人は一杯の荷物を背にしながら、八月の暑い太陽にじりじり照らされ、汗を拭き拭き落ちてゆく。哀れなる日本人である。
 前方に棒を持った朝鮮人が立っているのを見ると、「あれは誰かな。私達を殴りに待っているのではないかな」と、戦々恐々の有様である。後から来る人を見ると、私達を追い掛けているのではないかと、主任は前を見、後を見ておどおどして落着かない。奥さんは背に重い子を背負っているのでなかなか思うように足が運べない。その上まだ三人の子供の手を引いているのであるから、気ばかり焦るが足はなかなかはかどらない。
 暫く歩いていると面の有志の娘が私を追ってきて、
「先生、もうお行きですか。折角仲良くしていただいたのに」
 と涙を落しながら残念がっている。
「こうなれば仕方がありません。まあどうなってもあなたもお身体を大切にして元気でいて下さいね」
 と私も思わず涙が出る。お互いに別れの涙にくれながら、いつまでも手を振って別れていった。
「やっと逃げおおせる事ができたな」
 七人の者はいよいよ自分達の住んだ西面を離れる事ができた。ほっと胸をなでおろしていると、いきなり後ろからかけ足で走ってくる朝鮮人がある。何事かと思っていると、「主任さん、早く逃げて下さい。後から追いかけてくる人がある。早く早く」という。
 主任は驚いて背中の荷物を奥さんに渡すと、命からがら駈け出す。私も走ろうとするのであるが、背中に思いリュックを背負っているし、手にはトランクを下げているので走れない。仕方がないので私は覚悟をきめて、奥さんや子供達と一緒に歩き出す。しかし気ばかり焦って生きた心地はしなかった。せめて妻子を一目見るまでは死ねないと決めている私は、妻子への未練で一杯であった。 
コメント
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