稲刈りの一番大事なときなのに連日雨で、きのうはさすがにコンバインもお休みでした。買い物に出て、母の顔を見て、帰ってきましたが、途中見掛ける田んぼには、まだ稲刈りの終わっていない田んぼがかなりあります。なんとか晴れてほしい。
父の『引揚げ記』(11) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 仮名遣い、用字は原文のまま
校長の家族と私は、子供達の手を引いたりまた待ち合せたり、先に行ったり後に行ったりして歩くが、小さな子供がいるので思うように歩めない。そんなのろい歩みであるが、今にもソ聯兵が来るか来るかと後を振り向き振り向き歩んで行った。とうとう我慢が出来なくなって、私は一人校長の家族達と離れてしまった。
私は歩きながら考える。こんな国民服を着てきては危険だ。朝鮮人に頼んで、朝鮮服を借りようと思う。
早速幸いに私達の住んでいた面の道路であったので、心やすくしていた朝鮮人の家に立寄り、朝鮮人の服と国民服をかえてもらう。その朝鮮人は親切に、私に肌着まで恵んでくれた。
私は別れを告げると、唯ひたすらにてくてくと一人歩き続ける。ところが夕方近くなって、後から走ってくる者がある。何事だろうと思っていると、その男はさっき洋服を取り換えた朝鮮人である。
「先生、私が洋服を日本人と取り換えた事がわかると、私がソ聯兵に連れて行かれてしまう」
と云う。きっと誰かに入れ智恵をされたのだろう。私は残念に思ったが、朝鮮服を脱いで返してやる。その代わりの国民服は持ってきていないから、結局国民服を一着取られたような形になってしまった。仕方がないので背のリュックの中から一着の服を出してそれを着て歩く。
歩いて歩いて歩いて、日はとっぷりと暮れてしまう。
京城へ京城へ! 憧れの京城を目指して唯ひたすらに真っ暗な道を歩き続ける。京城までここから三十キロメートルあるか五十キロメートルあるかもわからない。でも一歩一歩京城に近づいているのだ、という希望を抱いて歩き続ける。
京城には鉄原を通って行かなくてはならない。その鉄原には、既にソ聯兵が入り込んでいるという事である。何とかそのソ聯兵に見つからないようにと、思いめぐらしながら歩いた。
道路の横に五、六軒の家があり、そこを通り過ぎるとたくさんの人が集っていて、私をじろじろと見つめる。背にあるリュックの荷物は益々重く感じ、肩に食い込んでくる。腹が空いて歩む力もつきてしまって、流れる汗を拭いながら、道の横の草むらに崩れるように倒れる。
涙が出てくる。どうしてこんなつらい目に遭わなくてはならないのだろう。果たして京城まで歩けるだろうか。
食べる物がないので、生の米をぽりぽりかじりながら元気を出そうとするが、もう立ち上がる元気もない。こうなれば欲も徳もない。唯ひたすらに生きたかった。背のリュックから服を捨て下着を捨て、終りには金も重いので捨てた。お米もあまり重いので畦道に捨てる。翌日こんな品物を見た朝鮮人はどう思うであろうかなどと考えながら捨てる。足に巻いたゲートルも捨て、少しでも重みのある物はみんな捨ててしまった。しまいに残ったのは、一枚の着替えのシャツだけであった。若し日本に帰って暮すようになっても、この一枚のシャツだけで暮らせばよい、とその時は思っていた。
今度はリュックがさすがに輕かった。これにより稍元気を取り戻してまた歩き出す。すると道が二又に分れている。どちらへ進んだらいいのやらわからないので、幸いそこに涼んでいた朝鮮人に、
「京城に行くにはどの道を行けばいいか」と尋ねる。
「モウライオ(日本語はわからない)」と答える。
仕方がなく私は運を天に任せて右の暗い道を歩き出す。暫く歩いていると、後から駆けてくる人があって、
「おーい、ちょっと待て」と叫んでいる。
私はどきっとした。そう叫んでいる人は敵か味方か、逃げようか待っていようかと迷いながら道の横にしゃがんでいると、どやどやと四、五人の人々が私を取り囲んで立ちはだかった。中の一人が何やら朝鮮語で話し掛けてくる。何の事かわからないのできょとんとしていると、
「おい、お前は日本人か」と一人が云う。
「そうだ」と私は答える。
「どこから来た」と問う。
「伊川から来た」と答える。
「これからどこへ行くのか」
「京城へ行く」
「背に背負っているものは何だ」
「着替えのシャツだ」
「置いていけ」と云う。
私が困っていると、中の一人が「お前は西面の校長だったなあ」と云う。
「そうだ」
「まあまあ、この度は許してやろう。行っていいよ」
と中の長のような人が云ってくれたので、ほっと胸をなで下して歩み出す。 (つづく)
父の『引揚げ記』(11) 昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 仮名遣い、用字は原文のまま
校長の家族と私は、子供達の手を引いたりまた待ち合せたり、先に行ったり後に行ったりして歩くが、小さな子供がいるので思うように歩めない。そんなのろい歩みであるが、今にもソ聯兵が来るか来るかと後を振り向き振り向き歩んで行った。とうとう我慢が出来なくなって、私は一人校長の家族達と離れてしまった。
私は歩きながら考える。こんな国民服を着てきては危険だ。朝鮮人に頼んで、朝鮮服を借りようと思う。
早速幸いに私達の住んでいた面の道路であったので、心やすくしていた朝鮮人の家に立寄り、朝鮮人の服と国民服をかえてもらう。その朝鮮人は親切に、私に肌着まで恵んでくれた。
私は別れを告げると、唯ひたすらにてくてくと一人歩き続ける。ところが夕方近くなって、後から走ってくる者がある。何事だろうと思っていると、その男はさっき洋服を取り換えた朝鮮人である。
「先生、私が洋服を日本人と取り換えた事がわかると、私がソ聯兵に連れて行かれてしまう」
と云う。きっと誰かに入れ智恵をされたのだろう。私は残念に思ったが、朝鮮服を脱いで返してやる。その代わりの国民服は持ってきていないから、結局国民服を一着取られたような形になってしまった。仕方がないので背のリュックの中から一着の服を出してそれを着て歩く。
歩いて歩いて歩いて、日はとっぷりと暮れてしまう。
京城へ京城へ! 憧れの京城を目指して唯ひたすらに真っ暗な道を歩き続ける。京城までここから三十キロメートルあるか五十キロメートルあるかもわからない。でも一歩一歩京城に近づいているのだ、という希望を抱いて歩き続ける。
京城には鉄原を通って行かなくてはならない。その鉄原には、既にソ聯兵が入り込んでいるという事である。何とかそのソ聯兵に見つからないようにと、思いめぐらしながら歩いた。
道路の横に五、六軒の家があり、そこを通り過ぎるとたくさんの人が集っていて、私をじろじろと見つめる。背にあるリュックの荷物は益々重く感じ、肩に食い込んでくる。腹が空いて歩む力もつきてしまって、流れる汗を拭いながら、道の横の草むらに崩れるように倒れる。
涙が出てくる。どうしてこんなつらい目に遭わなくてはならないのだろう。果たして京城まで歩けるだろうか。
食べる物がないので、生の米をぽりぽりかじりながら元気を出そうとするが、もう立ち上がる元気もない。こうなれば欲も徳もない。唯ひたすらに生きたかった。背のリュックから服を捨て下着を捨て、終りには金も重いので捨てた。お米もあまり重いので畦道に捨てる。翌日こんな品物を見た朝鮮人はどう思うであろうかなどと考えながら捨てる。足に巻いたゲートルも捨て、少しでも重みのある物はみんな捨ててしまった。しまいに残ったのは、一枚の着替えのシャツだけであった。若し日本に帰って暮すようになっても、この一枚のシャツだけで暮らせばよい、とその時は思っていた。
今度はリュックがさすがに輕かった。これにより稍元気を取り戻してまた歩き出す。すると道が二又に分れている。どちらへ進んだらいいのやらわからないので、幸いそこに涼んでいた朝鮮人に、
「京城に行くにはどの道を行けばいいか」と尋ねる。
「モウライオ(日本語はわからない)」と答える。
仕方がなく私は運を天に任せて右の暗い道を歩き出す。暫く歩いていると、後から駆けてくる人があって、
「おーい、ちょっと待て」と叫んでいる。
私はどきっとした。そう叫んでいる人は敵か味方か、逃げようか待っていようかと迷いながら道の横にしゃがんでいると、どやどやと四、五人の人々が私を取り囲んで立ちはだかった。中の一人が何やら朝鮮語で話し掛けてくる。何の事かわからないのできょとんとしていると、
「おい、お前は日本人か」と一人が云う。
「そうだ」と私は答える。
「どこから来た」と問う。
「伊川から来た」と答える。
「これからどこへ行くのか」
「京城へ行く」
「背に背負っているものは何だ」
「着替えのシャツだ」
「置いていけ」と云う。
私が困っていると、中の一人が「お前は西面の校長だったなあ」と云う。
「そうだ」
「まあまあ、この度は許してやろう。行っていいよ」
と中の長のような人が云ってくれたので、ほっと胸をなで下して歩み出す。 (つづく)