いつまでも「古希からの田舎暮らし」では「陳腐だ!」と思い、田舎暮らし9年目になる78歳のときにブログの名前を変えました。とりあえず80歳までは生きるつもりで。ところが、いざ80歳になってみると「昨日のつづきに今日がある」ように、なんということはありません。そこでやっぱり「古希からの田舎暮らし」に戻るlことにしました。『とりあえず80歳へ』は78歳と79歳の2年間だけにします。
神戸から三木へ引っ越したときは、「いままでの人生を『ご破算で願いましては』にして、新天地の土地で、田舎暮らしで余生をおくるつもりでした」。自分の学生時代のアルバムとか中学校の先生をしていた時代の文集やアルバムとか自作の教材を全部処分して、家族の記録だけ残し、隠遁生活をする気分でした。
しかし10年たってみると ドッコイ! ぼくも長寿時代の人の子。結構余生が長くなりそうです。それに人との〈つながり〉や〈思い〉は、そう簡単に切ったり貼ったりできるものではありません。年賀状は数十枚やりとりしますし、訪ねてくる知人友人もあり、「なにかでつながっていたい」自分の気持ちが結構つよいのにもおどろきます。いまでは〈ブログ書き〉が大事な日課になっています。
ブログ書きがどこまでつづくかわかりません。
これから何年つづいてもいいように、『古希からの田舎暮らし』に戻ります。これからもよろしくお願いします。
父は小学校の教員でした。戦時中は朝鮮(外地)に渡って小学校に勤めました。ぼくら家族も朝鮮で暮らしていました。昭和18年に母が病気になり、治療のため3人の子どもを連れて日本(内地)の実家に一時帰国しました。病気は治っても、戦況がわるく、民間人を朝鮮に渡す船はありませんでした。母と3人の子どもは実家(鳥取県の田舎)で、敗戦になりました。
日本の敗戦後、父は38度線の北から京城(いまのソウル)へと逃げまどい、命からがら日本に引揚げてきました。その手記『引揚げ記』をしばらく連載します。父にとっては「生涯最大の思い出」です。お付き合いをお願いします。
※ 明治42年生れの父は旧字体も書いていますが、そのままアップします。
昭和20年 8月 15日 朝鮮の山奥で (1)
朝鮮のちょうど中央部、鉄の三角地帯の一つ、鉄原から40キロメートル(10里)ばかり山奥に入ったところに、西面(「面」は日本でいう「村」に当る)という村があった。その西面は全くの山奥で、一日に3回鉄原から通うバスがあり、それが他の村と連絡する唯一の交通機関であった。電気は勿論なく、小さな燈油の光りを夕方ほんのわずかの間ともすだけの暗い暮しであった。
唯文化的施設と云えば、面事務所(村役場)と駐在所(警察官の家)と小学校で、これらに務める人々がいろいろ協議して、面の運営が行われていた。それらの文化的施設の長を、『面の三長官』といって、面の中では一番えらい人々であった。その面に居住する日本人といえば、駐在所の警察官と小学校の校長である私だけであって、面長(村長)は朝鮮人である。
大東亜戦争もますますはげしくなり、食糧がひっぱくしてきたある日の面事務所の出来事を記してみる。
面事務所に、突然やせ細った2、3人の男が入って来た。
「面長さん、米をくれねえか。食べ物をおくれ。おれあ死ぬる」
と床に座りこむ。
「お前等が食べ物にこまっているのはよくわかる。だがな。面には米がないのだから、どうにも仕方がない。今日は帰ってくれ」
面長は大きな目を見張って断る。
「面長、俺達は死んでもいいというのか」
男は怒鳴る。いや死んでは困る。だが、ない米はあげられないではないか」
彼等は悲しい声を上げて泣き出してしまった。
「あゝ、困るなあ」
面長は顔をしかめて吐息をつく。
「俺達は家に帰ってもどうせ食べ物がないのだから、同じ死ぬなら面長の机の上で死ぬんだ」
彼等は或は泣き、或は反抗し、面長の机の上に上がってあぐらをかく。
ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。 (つづく)
神戸から三木へ引っ越したときは、「いままでの人生を『ご破算で願いましては』にして、新天地の土地で、田舎暮らしで余生をおくるつもりでした」。自分の学生時代のアルバムとか中学校の先生をしていた時代の文集やアルバムとか自作の教材を全部処分して、家族の記録だけ残し、隠遁生活をする気分でした。
しかし10年たってみると ドッコイ! ぼくも長寿時代の人の子。結構余生が長くなりそうです。それに人との〈つながり〉や〈思い〉は、そう簡単に切ったり貼ったりできるものではありません。年賀状は数十枚やりとりしますし、訪ねてくる知人友人もあり、「なにかでつながっていたい」自分の気持ちが結構つよいのにもおどろきます。いまでは〈ブログ書き〉が大事な日課になっています。
ブログ書きがどこまでつづくかわかりません。
これから何年つづいてもいいように、『古希からの田舎暮らし』に戻ります。これからもよろしくお願いします。
父は小学校の教員でした。戦時中は朝鮮(外地)に渡って小学校に勤めました。ぼくら家族も朝鮮で暮らしていました。昭和18年に母が病気になり、治療のため3人の子どもを連れて日本(内地)の実家に一時帰国しました。病気は治っても、戦況がわるく、民間人を朝鮮に渡す船はありませんでした。母と3人の子どもは実家(鳥取県の田舎)で、敗戦になりました。
日本の敗戦後、父は38度線の北から京城(いまのソウル)へと逃げまどい、命からがら日本に引揚げてきました。その手記『引揚げ記』をしばらく連載します。父にとっては「生涯最大の思い出」です。お付き合いをお願いします。
※ 明治42年生れの父は旧字体も書いていますが、そのままアップします。
昭和20年 8月 15日 朝鮮の山奥で (1)
朝鮮のちょうど中央部、鉄の三角地帯の一つ、鉄原から40キロメートル(10里)ばかり山奥に入ったところに、西面(「面」は日本でいう「村」に当る)という村があった。その西面は全くの山奥で、一日に3回鉄原から通うバスがあり、それが他の村と連絡する唯一の交通機関であった。電気は勿論なく、小さな燈油の光りを夕方ほんのわずかの間ともすだけの暗い暮しであった。
唯文化的施設と云えば、面事務所(村役場)と駐在所(警察官の家)と小学校で、これらに務める人々がいろいろ協議して、面の運営が行われていた。それらの文化的施設の長を、『面の三長官』といって、面の中では一番えらい人々であった。その面に居住する日本人といえば、駐在所の警察官と小学校の校長である私だけであって、面長(村長)は朝鮮人である。
大東亜戦争もますますはげしくなり、食糧がひっぱくしてきたある日の面事務所の出来事を記してみる。
面事務所に、突然やせ細った2、3人の男が入って来た。
「面長さん、米をくれねえか。食べ物をおくれ。おれあ死ぬる」
と床に座りこむ。
「お前等が食べ物にこまっているのはよくわかる。だがな。面には米がないのだから、どうにも仕方がない。今日は帰ってくれ」
面長は大きな目を見張って断る。
「面長、俺達は死んでもいいというのか」
男は怒鳴る。いや死んでは困る。だが、ない米はあげられないではないか」
彼等は悲しい声を上げて泣き出してしまった。
「あゝ、困るなあ」
面長は顔をしかめて吐息をつく。
「俺達は家に帰ってもどうせ食べ物がないのだから、同じ死ぬなら面長の机の上で死ぬんだ」
彼等は或は泣き、或は反抗し、面長の机の上に上がってあぐらをかく。
ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。 (つづく)