古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の『引揚げ記』  (4)

2017年10月09日 01時24分18秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 
「今年は絶対に伽耶院の『採燈大護摩供』を見に行こう」と夏になる前から決めていました。決めないと行けないからです。体育の日を忘れてしまったり「ま、来年でもいいか」と思ったりで何年も過ぎてしまいました。8年前だったか一度見たことがありますが、パワーをもらえます。11時30分から始まりますが、駐車場のこともあり10時過ぎに出掛けました。10時30分には石垣の上に座る場所を確保して、待ちます。紅葉の樹の日陰で暑くなく、風もなく、絶好の護摩日和です。 
 
 関西の山伏が大集合。ほら貝が鳴り、弓矢や斧の儀式がすすみ、気分が盛り上がります。護摩焚きの火は高く燃えあがります。

 宝剣加持もしていただき、パワーをもらって帰ってきました。


     昭和20年8月15日  朝鮮の山奥で    (4)   ※ 父の手記をそのまま載せます。


 奥の方に入って見ると、(駐在所の)主任は汗だくで荷造りの真っ最中である。そして「朝鮮が独立したんですって。ぐずぐずしていてはだめです。なるべく早く伊川に引揚げるようにと通知があったんです」という。
 私はこれを聞かされて、頭をぐゎんと叩かれた感じがした。同じ日本人でありながらお互いに助け合いがなくてはならない同胞であるのに、なぜこれ程大切な事をすぐに私に知らせてくれなかったのか。同じ同胞に裏切られた気がして悲しくなった。
「早くしないと独立運動でどんなことが起きるかわからない。早くした方がいいよ」
「どんな事が起こるんですか」
「隣村では独立旗をおし立てて示威運動をして、だんだんこちらに迫ってくるらしいんだって」
 私はどうしたらいいのか全く見当がつかない。どこまでが真実でどこまでがデマか見分けがつかない。でも唯考えていても仕方がないので、一先(ひとまず)伊川へ引揚げる準備にかかる。
 学校まで帰ってみると、今まで教えていた生徒達が、じろじろと遠くの方で変な目付きで私を見つめる。「どうもおかしいな」と思って職員室に入ってみると、多くの職員と生徒達が寄り集って、朝鮮独立の旗をつくっている。黒板には朝鮮独立の文字が大きく書かれている。
「伊川まで引揚げることにした」と私は職員達に告げると家路についた。
 道路では独立旗をけ立てて鐘をじゃんじゃん鳴らし、大声をあげて示威をしている。私にとっては周囲を敵に囲まれた感じであった。頭をまともに上げて歩けない有様である。
 やっと家に辿りつくと、さてどんな荷物を持って引揚げようかと考える。これは入用なものである。これは不用なものであるの区別がつきにくい。もう再びここに帰ってくる事はあるまい。随分親しんできたいろいろな道具を手放したくない。
 しかしそうたくさんは持って歩けない。まあいいや。人間切羽詰ってみると、案外何も不要になってくる。命だけあれば後はどうにかなるだろうという気になる。それでも入るだけの品物をリュックの中に詰めていると、遠くでジャンジャン朝鮮独立の示威運動の鐘が鳴っていたのが、だんだんこちらの方に近寄ってくる。とうとう私の家のすぐ前まで迫ってきた。
 これ等の集団がいきなり私の室の障子を開けると、何か朝鮮語で叫んだり怒鳴ったりする。外を見ると今日まで私の部下だった職員の顔も見える。大衆が何を云っているのかわからないのでとぼけた顔をしていると、かつての私の部下の職員達が、その高ぶる叫びをなだめているような様子である。
 おぼろげながらうろ覚えの朝鮮語から彼等の叫んでいる事を判断してみると、「日本はもう敗けたんだから、ここにいる日本人を叩き殺してしまおう」と云っているようである。私もいざという時は自決するつもりでいたので、彼等の言葉を割に平静に聞く事ができた。しかし、今その時がきたと思うと、突然に私の頭にとびこんできたものは、故郷に残して来た妻子の事である。
 今日の日まで、日本が勝つためには家もない私もない、唯日本の為に、と滅私奉公を身を以って実践してきたのに、今自決の時に妻子を考えると、何となさけない人間であるのかと我ながら恥しい気持で一杯であった。     (つづく)
 
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父の『引揚げ記』   (3)

2017年10月09日 01時18分27秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 萌ちゃん一家が三木のブドウをゲットしようとやってきたので、みんなで妙子さんを訪ねました。

 笑顔も見られたのですが写真とタイミングが合いませんでした。でも気持ちは伝わりました。その後、元サティー前の、
出汁のおいしいうどん屋さん・淡家へ。メニューいろいろで迷いますが、「ぶっかけ」の〈冷や〉にしました。出汁がうまかった。


 父は9月中頃に鳥取県の母の実家に引き揚げてきました。リュックサックには古い毛布が入っていました。ぼくはまだ7歳でしたから、大人の話には加われず、どんな様子だったか聞いていません。敗戦後の暮らしは田舎でも大変でしたから、「引き揚げ」の様子をくわしく聞いたこともありません。いま父の文を読みながら当時の状況を想像します。

   
         昭和20年8月15日  朝鮮の山奥で   (3)
 ※ 父の書いた文のまま載せます。

 変だ。まさかその人が私をだましているとも思われない。デマではあるまいと思うのだが、どうしても戦争が終わったとは信じられなかった。
 下宿に帰っても落着かない。不安で一杯であるがどうにも仕方がない。話相手もなく相談する人もない。自分の周囲は朝鮮人ばかりであるからである。
 電気のない真っ暗闇の下宿に入って、一人になってみるといろいろな思いが乱れとぶ。
 生きている目的がなくなった。今まで敗けるという事は考えたことがなかった。これからの日本はどうなるのだ。いろいろな苦しい生活が私達を襲ってくるであろう。
 これが真実か。今日の日まで勝つと信じ、勝つために全精力を注ぎ込んできた自分であるのに、全く夢の出来事である。
 でももう一度その事をたしかめようと思って、同じ日本人である駐在所主任のところに行こうと出掛けていったが、その途中で面長に会った。
「面長さん、戦は終ったってほんとうですか」
 と問い掛ける。
「えゝ、どうもそうらしいですなあ」
「今日伊川郡(郡の中心都市ですべての司令がここから発せられる)から手紙が来て、戦は終ったから、戦争の事は何もしなくてよいという事でしたなあ」
 がっくり。唯ぼんやり重い頭をふりふり、再び下宿に帰る。悩みは尽きないが、体は昼間の労働にすっかり疲れて、いつの間にか眠ってしまった。
 終戦第二日目、8月16日も暑い太陽がじりじりと照りつけていた。私は何もなかったような顔をして学校に出勤する。掲示板の『必勝』の字が目にしみるように痛い。恥かしくなり小使いに命じてその掲示板を下ろさせ、朝会では全生徒に向かって、
「残念ではあるが、日本は負けた。これからすぐに楽しい日本になるとは考えられない。いや、苦しいことはこれから始まるかも知れない。どんな苦しい事でもそれをじっと我慢して、それを切り抜けるにちがいない。皆も心をゆるめないで、しっかり覚悟をきめてほしい」
 と訓示して、平常通りの授業を続ける。
 昼近くなって伊川に出張していた職員の一人が学校に帰って来て、変な顔をしてじっと私を見詰めていう。
「校長先生は何も通知がなかったのですか」
「何の通知?」
「伊川では大騒動ですよ。なんでも朝鮮が独立したんですって」
「まさか」
 そんな事は信じられない。やがて小使いが私のところに来て、「面長さんと駐在さんが何か話してた」とささやく。私も話のわかる人と話してみたくなり、すぐ近くにある駐在所を訪ねてみた。面長はいなかったが、二、三人の人が一心に荷造りしている。
「何をしているのか」と尋ねると「日本人は早く伊川に引揚げて下さい。さもないと危険です」という。    (つづく)




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