父の『引揚げ記』をきのうから載せています。
日本があの戦争に負けたとき「ものごころついていた」多くの日本人は「生涯忘れられない自分の物語」を体験したでしょう。「生涯忘れられない凄惨な場面」を目撃したでしょう。そしてだれにも語ることなく亡くなった人も多いでしょう。
父は小学校の教員として平凡な一生を送りましたが、あの敗戦後一ヵ月間に遭遇した出来事だけは、伝えたかったようです。ぼくは高校生の頃に父の本棚にあった彼の手記を一度読みました。わら半紙(敗戦後あった粗末な紙)数十枚に書いてある手記でした。
その後その手記は引っ越しにまぎれて紛失したようですが、68歳で神戸に移り住んでから再び書いた手記を載せています。
昭和20年8月15日 朝鮮の山奥で (2) ※ 漢字/用字/仮名遣いは原文のまま載せます。
ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。
「アイゴー、アイゴー」
彼等は面長の机の上で大声で泣き伏す。全く面(村のこと)に住んでいる百姓達は、戦がはげしくなるにつれ、食料は不足し、米はいくら作っても殆ど供出させられ、その日の食べ物にも困る程せっぱつまっていた。
百姓達は食料がなくなると、山や野原に出て、食べられそうな草や木の実をとってきてはそれで飢えをしのいだ。また川に入っては魚をとり、それを汁と一緒に煮てその日の空腹をしのいでいたのであった。
そんな物を食べているので栄養不足でだんだん衰えて、自由に体を動かして働く事ができない程弱り果てていた。
そんな暮しの百姓達を尻目に、軍の上の方からは司令が次々と下ろされてきた。松根油をとる松を切って来いとか、山の木の実を集めて油を絞れとか、馬の飼料になる葛葉を採集してそれを乾燥させろとか、次々に仕事がふりかかって来た。
若(も)しこれ等の仕事の割当を果たさない者があると、「日本が戦争に負けてもいいのか」と警察官に怒鳴られ、その上棒でこっぴどく叩かれるのである。このように一般に面の人々の生活は、もうこれ以上下がれないというぎりぎりの生活に迫られていた。
それでも日本人である駐在所の主任と小学校長の私だけは、三日遅れで郵送される新聞のニュースを信じ切っているので、日本は勝つのだ、勝たねばならないのだ、と張り切って朝鮮人を説き伏せ、叩きつけて、朝鮮人の尻をひっぱたいていた。
ソ聯兵(ソ連兵)が満州から朝鮮に攻め入ってきたという噂が広まると、私は声高らかに朝会で全生徒に叫び続けた。
「いよいよ私達もお国の為に尽くす事ができる。ソ聯兵が北からだんだんこちらに攻めて来ているようだ。若し私達の面まで入ってきた時は、竹槍で一人でも二人でも敵兵を倒して、いさぎよく我等も果ててしまおうではないか」
子供達がどんな心で聞いていたか知らなかった。唯私は自分の持つ大和魂を子供達の心の中にたたき込んでやりたい一念であった。
終戦の日8月15日も学校は休業して、学校に割り当てられた松根油を確保する為に、朝から全職員が各に出向いて、子供達をはげまして廻った。
暑い暑い夏の一日を朝から汗を拭き拭き、私も陣頭指揮で督励して廻った。児童たちは小さい釜に松の根を入れて、それに火を燃やしつけて、わずかばかりの油を絞りとっていた。この油が何に使われるのか、どうしてこんな油を絞らねばならないかは知っていなかった。
日暮れて疲れ切って家路を辿っていると、面長の家の前で10名ばかりの人々が集ってがやがや話している。何事かなと近づいてみると、
「校長先生、戦争は終わったそうですなあ」
とある人が云う。
「えゝ、どうてそれ」
私はわけのわからない言葉を発して、そんなことがあるものかと信じられない。
「今日ラヂオ放送があって、戦争は終わったから松根油はとらなくてもよい、という通知が入ったそうです」
「本当ですか。一体どんなふうに戦争が終わったのですか」
「さあ、そのへんははっきりわからないが、そういう話がラヂオで放送されたそうです」 (つづく)
日本があの戦争に負けたとき「ものごころついていた」多くの日本人は「生涯忘れられない自分の物語」を体験したでしょう。「生涯忘れられない凄惨な場面」を目撃したでしょう。そしてだれにも語ることなく亡くなった人も多いでしょう。
父は小学校の教員として平凡な一生を送りましたが、あの敗戦後一ヵ月間に遭遇した出来事だけは、伝えたかったようです。ぼくは高校生の頃に父の本棚にあった彼の手記を一度読みました。わら半紙(敗戦後あった粗末な紙)数十枚に書いてある手記でした。
その後その手記は引っ越しにまぎれて紛失したようですが、68歳で神戸に移り住んでから再び書いた手記を載せています。
昭和20年8月15日 朝鮮の山奥で (2) ※ 漢字/用字/仮名遣いは原文のまま載せます。
ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。
「アイゴー、アイゴー」
彼等は面長の机の上で大声で泣き伏す。全く面(村のこと)に住んでいる百姓達は、戦がはげしくなるにつれ、食料は不足し、米はいくら作っても殆ど供出させられ、その日の食べ物にも困る程せっぱつまっていた。
百姓達は食料がなくなると、山や野原に出て、食べられそうな草や木の実をとってきてはそれで飢えをしのいだ。また川に入っては魚をとり、それを汁と一緒に煮てその日の空腹をしのいでいたのであった。
そんな物を食べているので栄養不足でだんだん衰えて、自由に体を動かして働く事ができない程弱り果てていた。
そんな暮しの百姓達を尻目に、軍の上の方からは司令が次々と下ろされてきた。松根油をとる松を切って来いとか、山の木の実を集めて油を絞れとか、馬の飼料になる葛葉を採集してそれを乾燥させろとか、次々に仕事がふりかかって来た。
若(も)しこれ等の仕事の割当を果たさない者があると、「日本が戦争に負けてもいいのか」と警察官に怒鳴られ、その上棒でこっぴどく叩かれるのである。このように一般に面の人々の生活は、もうこれ以上下がれないというぎりぎりの生活に迫られていた。
それでも日本人である駐在所の主任と小学校長の私だけは、三日遅れで郵送される新聞のニュースを信じ切っているので、日本は勝つのだ、勝たねばならないのだ、と張り切って朝鮮人を説き伏せ、叩きつけて、朝鮮人の尻をひっぱたいていた。
ソ聯兵(ソ連兵)が満州から朝鮮に攻め入ってきたという噂が広まると、私は声高らかに朝会で全生徒に叫び続けた。
「いよいよ私達もお国の為に尽くす事ができる。ソ聯兵が北からだんだんこちらに攻めて来ているようだ。若し私達の面まで入ってきた時は、竹槍で一人でも二人でも敵兵を倒して、いさぎよく我等も果ててしまおうではないか」
子供達がどんな心で聞いていたか知らなかった。唯私は自分の持つ大和魂を子供達の心の中にたたき込んでやりたい一念であった。
終戦の日8月15日も学校は休業して、学校に割り当てられた松根油を確保する為に、朝から全職員が各に出向いて、子供達をはげまして廻った。
暑い暑い夏の一日を朝から汗を拭き拭き、私も陣頭指揮で督励して廻った。児童たちは小さい釜に松の根を入れて、それに火を燃やしつけて、わずかばかりの油を絞りとっていた。この油が何に使われるのか、どうしてこんな油を絞らねばならないかは知っていなかった。
日暮れて疲れ切って家路を辿っていると、面長の家の前で10名ばかりの人々が集ってがやがや話している。何事かなと近づいてみると、
「校長先生、戦争は終わったそうですなあ」
とある人が云う。
「えゝ、どうてそれ」
私はわけのわからない言葉を発して、そんなことがあるものかと信じられない。
「今日ラヂオ放送があって、戦争は終わったから松根油はとらなくてもよい、という通知が入ったそうです」
「本当ですか。一体どんなふうに戦争が終わったのですか」
「さあ、そのへんははっきりわからないが、そういう話がラヂオで放送されたそうです」 (つづく)