古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

秋の『野草酵素飲料』を仕込みました。 『引揚げ記』 (5)

2017年10月11日 06時20分15秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 酒米・山田錦の稲刈り真っ最中です。いまは晴天ですが、2、3日後は雨になりそうです。急がなければなりません。きのう一日でうちの畑のまわりは稲刈りがほとんど終わりました。ハイ・ペースで秋の農作業がすすんでいます。
 黒豆も「枝豆として食べ頃」に急になってきました。ここ一週間ほどで「黒豆狩り」に来てもらったり、送ったりしなければなりません。その前に「秋の野草酵素飲料」を仕込んでしまおう、と伽耶院の護摩供養のあと思い立って買い物に行きました。秋は野草というより果物中心になりますから、「道の駅」で仕入れていましたが、旧サティーと農協(ぶどう)で間に合いました。
 きのうは朝からまず「野草の植物採集」です。ギシギシやスギナ、畑ではサツマイモや豆類、菜っ葉類を採集して、ウッドデッキで仕込みました。その写真です。

 砂糖と〈果物/野草/葉っぱ類/穀類/栗/豆類〉などを一キログラムずつ十回交互に重ねていきます。午前中で仕込めました。毎朝夕にかき混ぜて、濾して、一週間で飲めるようになります。
 午後は畑で黒豆の枝豆を収穫しました。サツマイモのツル燃やしも。たしか宮本武蔵のお友だちだったか恋敵だったかの子孫とかかわりがあったかなかったか、又八さんがひょっこり畑に訪ねてこられ、枝豆を持ち帰ってもらいました。彼のホームページを見ると、見事な茶室を作っておられ、いつか見に行きたいと思っています。(膝は痛いけど)


  父の『引揚げ記』   昭和二〇年八月一五日 朝鮮の山奥で    (5)

 しかし妻子に未練ができると、どうしても生きねばならないと思う。せめて一目でもいいから妻子にあってから死にたいという気持が、むくむくと持ち上がってきた。
 独立の示威運動は、たけり立って大きく怒鳴ったり静かになって話合ったり、その間にも大きな鐘の音が続いている。
 そんな様子をぽつねんと眺めていると、部下の職員の一人が一本の煙草を差出してくれた。気がつくと朝から一服の煙草も吸っていなかったので、この一本の煙草を腹の底一杯に吸い込んだ。
 夜が更けると鐘の音はますますはげしくなった。その上変なデマまで流れ出した。
 面長が示威運動の暴力によってひどくやられたというのである。どうして朝鮮人が朝鮮人をこらしめるのか。それはこうである。即ち、戦時中日本に加担した面長だったというわけで、それをうらみに思っている人々が面長の家を襲って、家の前に置いてある漬物の壺をこわし、壁を破り、暴力で面長を取り押さえたというのである。
 真偽をたしかめようとして出掛けてみると、多くの人々が集って面長の家の前で鐘をたたき、喜び合っている。面長の家族の人々はこれ等の暴力をなだめようとするが、暴力をふるっている人々は相手にもしない。面長は多くの人の前に座らされて、唯じっと下を見詰めていた。駐在所を訪ねてみると、主任は家中荷物でごったがえした中で、ろうそくやランプに火をともし、汗だくになって荷物をまとめている。周囲には遠巻きにして朝鮮人達の声が聞こえ、ただならぬ様子であった。全く周囲は朝鮮人の敵ばかりの有様である。主任は小さい声で私にささやいた。
「日本はどんな条件で戦を終ったのだろうか」
「おそらく現段階では完全な負けにはちがいない」
「日本に帰って軍政でもしかれたら、いさぎよく死ぬるばかりだ」
「それでも一度は日本の土地を踏みたいなあ」
「警察の方では、団体にして警察官の家族全部を引揚げさせるように計画されている」
 この話を聞かされ、私はがっかりした。今日の日まで警察は私達を守り、私達を保護してくれるものと思っていたのに、その警察がまず自分達のことしか考えなくなった。一般の人々はどうなるのだ。私達は全く頼りになるものを失ってしまったのである。この上は自分自身に頼るほか仕方があるまい。朝鮮は敵、警察も自己主義になっているのであるから、頼りになるのは自分だけである。
 駐在所の主任は、
「今夜は私の家で泊っていかないか」
「いや、私にもいろいろ準備があるから」
 なぜ主任が私に泊ってゆくように云ったか後でわかったのだが、朝鮮の人々は今まで警察にいじめられていたので、団体で襲ってくるという心配があったからである。その時朝鮮の人々をなだめて止めてほしい、という意味があったらしい。
 日頃は大口をきいて、大きな事を云っている主任にも似合わず、案外弱いところがあるのだなあと思いつゝ、駐在所を辞して帰る。
 道路での鐘の音は相変らず鳴りひびき、今にも何かが起こりそうな様子である。その騒々しい鐘の音を一晩中聞きながら、まんじりとも出来ず夜を明かす。
 明くれば終戦第三日目の十七日。今日もからりと晴れ上がった暑い夏の日射しであった。私はリュックサックに出来るだけたくさんの荷物を背負って学校に行く。
 昨日までの生徒たちとちがって、遠巻きにじっと見ている。挨拶もしないで唯敵兵を見詰める目である。職員は勿論敵意に満ち満ちている。
 私はそれでも御真影としてあがめてきた日本の代表と勅語謄本(教員勅語)だけは大切に抱えて、学校を離れる。昨夜一緒に引揚げようと約束していたので駐在所に行ってみると、主任も家族もも抜けの殻で、家の中は朝鮮の人々が土足で入り込んでごった返している。
 残っている荷物を蹴散らす者、家の周りをぐるぐる廻って、何か物色する者、何かいいものはないかと鵜の目鷹の目である。
 私は約束を無にされたことに腹を立てながら駐在所を離れる。     (つづく)   
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