雨が降りそうな、また降るときもある、そんな天気の一日でした。それでもコンバインは田んぼを走り、稲刈りがすすみます。ずっとこんな天気の予報なので、仕方ありません。ぼくらも畑に出るかどうか。思案しても仕方がないので黒豆の枝豆を採りました。ぼくは公民館周りの草をナイロンコードで刈りました。ちょっときれいになった感じです。老人会でやるつもりでしたが、稲刈りの主力は老人会のメンバーです。こちらでやることにします。
父の『引揚げ記』 (9)
昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
鉄原の近くの駐在所の主任は、河原に引っ張り出されて叩き殺され、家は焼かれてしまったという事であった。だが殺された日本人を、惜しいことをしてしまったと誰か嘆いてくれたであろうか。それはその家族だけであった。後の日本人達は自分がいかに生き延びるかの思いで一杯であった。
実際に朝鮮人は終戦までと比べてみると、打って変わった態度であって、その変りようはあきれるばかりであった。
十七日夜になって、伊川郡に住っている日本人達がそろい、お互いに無事である事を喜び合った。殺されたとうわさの校長もやっと晩になって辿りついて、無事である事が知れてほっとした。
各家庭では食糧を持っていないので、当分の食糧という事で一人あたり二升ずつの米が配給され、各旅館とか或は心安くしている知人宅だとかに厄介になる。
伊川郡内に住んでいる日本人が全部集ればそれでも六十人位にはなる。それ等の日本人は全く朝鮮人の敵兵に囲まれたようなものであるから、日本人同士で昼となく夜となく寄り集って、伝わってくるデマとか或いはどこまでが真実かわからないような噂を話し合う毎日であった。
広島に大きな爆弾が落されて、大変多くの人が死んだとか、誰かれは鉄砲で打たれて死んだとか、或いはソ聯兵が進入してきて、多くの日本人は命からがら山の中に逃れて山の中で暮らしているとか、話は次から次へと尽きなかった。
私はお世話になっている校長さんの奥さんのお腹があまり大きく苦しそうなので、ご厄介になるのが心苦しく、とうとう朝鮮人の旅館に宿泊する事にした。
その旅館には同じく校長をしている日本人が泊っていて、その人も妻子を内地に残しているので、いろいろな事を話し合った。
「若し米人が入り込んで妻が辱められていたらどうするか」
「まあ仕方があるまいなあ」
「お前は許すか」
「許すより仕方があるまい。どうせ日本は戦争に敗れたんだから、それ位我慢しなくてはなるまい」
「うん、俺もそう思うなあ」
「俺は日本に帰ったら百姓をする」
「俺はこの際自由な立場で職業を探す」
「だが何といっても早く帰って日本の様子が知りたいなあ」
「早く帰って妻子に会いたいよ」
日本人がちょっと集まると、早く帰りたいという事が嘆息のように口をついて出てくる。しかし朝鮮に長年住って、朝鮮に多くの土地や借家を持っている人々はそれに執着して、「ここに止まってこの土地の土となる」と頑張る。或いは「せめて今までの財産だけは處理して行きたい」という者もいた。
だが周囲の事情はだんだん物騒になって、朝鮮人が暴動を起こして、日本人が殺されたという噂が流れる。或いはこの伊川でも暴動が起こればいよいよ覚悟を決めなくてはならない。若しそんな事が起ったら、日本人は皆警察に立籠もって、いさぎよく戦って死ぬるのだとうような司令が、秘密のうちに上の方から日本人に伝えられる。
「いよいよ最後の時が来たか」日本人の誰もが顔をこわばらせて緊張する。警察に集まった日本人は、最後の戦いに警察に保管してある二十丁ばかりの銃を持って敵に向って行こうという事であった。
こんな不安な日が、二、三日続いたある日、武装した日本兵が十名ばかり伊川に入り込んできた。すると今まで大騒ぎしていた朝鮮人の示威運動はぴたりとやんだ。兵隊達は何もする事がなく、二、三日で他へ移動していった。するとまた金を鳴らしながらの示威運動が高まるという風であった。
朝鮮人達は日本人に何か因縁をつけて、事を起こそうとしているのである。わざと日本人の前に立ちふさがり、何かわけのわからぬ朝鮮語で罵り、じろじろと睨みつけたりするのである。若しそれに逆らおうものなら、団体の力をもって日本人に刃向って行こうという雰囲気である。これ等腰の高い朝鮮人に対して日本人はじっと我慢するより外なかった。 (つづく)
父の『引揚げ記』 (9)
昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で ※ 用字、仮名遣いは原文のまま
鉄原の近くの駐在所の主任は、河原に引っ張り出されて叩き殺され、家は焼かれてしまったという事であった。だが殺された日本人を、惜しいことをしてしまったと誰か嘆いてくれたであろうか。それはその家族だけであった。後の日本人達は自分がいかに生き延びるかの思いで一杯であった。
実際に朝鮮人は終戦までと比べてみると、打って変わった態度であって、その変りようはあきれるばかりであった。
十七日夜になって、伊川郡に住っている日本人達がそろい、お互いに無事である事を喜び合った。殺されたとうわさの校長もやっと晩になって辿りついて、無事である事が知れてほっとした。
各家庭では食糧を持っていないので、当分の食糧という事で一人あたり二升ずつの米が配給され、各旅館とか或は心安くしている知人宅だとかに厄介になる。
伊川郡内に住んでいる日本人が全部集ればそれでも六十人位にはなる。それ等の日本人は全く朝鮮人の敵兵に囲まれたようなものであるから、日本人同士で昼となく夜となく寄り集って、伝わってくるデマとか或いはどこまでが真実かわからないような噂を話し合う毎日であった。
広島に大きな爆弾が落されて、大変多くの人が死んだとか、誰かれは鉄砲で打たれて死んだとか、或いはソ聯兵が進入してきて、多くの日本人は命からがら山の中に逃れて山の中で暮らしているとか、話は次から次へと尽きなかった。
私はお世話になっている校長さんの奥さんのお腹があまり大きく苦しそうなので、ご厄介になるのが心苦しく、とうとう朝鮮人の旅館に宿泊する事にした。
その旅館には同じく校長をしている日本人が泊っていて、その人も妻子を内地に残しているので、いろいろな事を話し合った。
「若し米人が入り込んで妻が辱められていたらどうするか」
「まあ仕方があるまいなあ」
「お前は許すか」
「許すより仕方があるまい。どうせ日本は戦争に敗れたんだから、それ位我慢しなくてはなるまい」
「うん、俺もそう思うなあ」
「俺は日本に帰ったら百姓をする」
「俺はこの際自由な立場で職業を探す」
「だが何といっても早く帰って日本の様子が知りたいなあ」
「早く帰って妻子に会いたいよ」
日本人がちょっと集まると、早く帰りたいという事が嘆息のように口をついて出てくる。しかし朝鮮に長年住って、朝鮮に多くの土地や借家を持っている人々はそれに執着して、「ここに止まってこの土地の土となる」と頑張る。或いは「せめて今までの財産だけは處理して行きたい」という者もいた。
だが周囲の事情はだんだん物騒になって、朝鮮人が暴動を起こして、日本人が殺されたという噂が流れる。或いはこの伊川でも暴動が起こればいよいよ覚悟を決めなくてはならない。若しそんな事が起ったら、日本人は皆警察に立籠もって、いさぎよく戦って死ぬるのだとうような司令が、秘密のうちに上の方から日本人に伝えられる。
「いよいよ最後の時が来たか」日本人の誰もが顔をこわばらせて緊張する。警察に集まった日本人は、最後の戦いに警察に保管してある二十丁ばかりの銃を持って敵に向って行こうという事であった。
こんな不安な日が、二、三日続いたある日、武装した日本兵が十名ばかり伊川に入り込んできた。すると今まで大騒ぎしていた朝鮮人の示威運動はぴたりとやんだ。兵隊達は何もする事がなく、二、三日で他へ移動していった。するとまた金を鳴らしながらの示威運動が高まるという風であった。
朝鮮人達は日本人に何か因縁をつけて、事を起こそうとしているのである。わざと日本人の前に立ちふさがり、何かわけのわからぬ朝鮮語で罵り、じろじろと睨みつけたりするのである。若しそれに逆らおうものなら、団体の力をもって日本人に刃向って行こうという雰囲気である。これ等腰の高い朝鮮人に対して日本人はじっと我慢するより外なかった。 (つづく)