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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の 『引揚げ記』   (7)

2017年10月13日 01時51分01秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
    父の『引揚げ記』  昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で  (7)
 

 間もなく三人の若い朝鮮人が走って来ると、その中の一人が私の前に立ちふさがり、何やら朝鮮語で叫ぶ。何の事やらわからないので突っ立っていると、
「なぜあの時、私を叩いたか」
 と日本語である。そういえば前に立っている男は、私が長をしている青年特別訓練所の生徒で、度々頬を殴って鍛えた男である。
「それは立派な日本人にする為だ」
 とは云えない今であるので、唯黙ってうつむいていた。
 その男は「ぐゎん」と私の頬に一撃を食らわせると、主任が走って行った方向に駆けてゆく。私は無念で仕方がないが、すぐそこの畑には朝鮮の人々が農具を手に眺めている。手出しをすることができないので黙って進んでいくと、主任は棒を持った男達に追いつかれて、取り囲まれている。主任は道の横に小さくなって、「どうか許してくれ。許してくれ」と手を合わせている。それは今日まで威張りちらした報いなのだから仕方あるまいと思う。
 仕方がないので私が「どうか許してやって下さい」と仲に入る。
 私が云い終ると同時に三人の若い朝鮮人は、持っていた棒でばしばしと叩きだした。頭といわず顔といわず背中も腹もめった打ちに叩く。
「助けて!」と小さい声で云い、主任は頭をかかえて道路の溝に伏す。奥さんは女であるから叩かれないが、私も頭や顔や背中を相当叩かれた。主任は声をあげて泣き出す。そして頭から或は顔から血が流れている。私も叩かれているのだから、どうする事もできない。主任と私は唯叩かれるに身をゆだねるより仕方がなかった。
 いきり立った朝鮮人は口々に罵りながら、棒を振り上げては殴る殴る。奥さんが仲に入って静めようとするが、興奮した朝鮮人はおさまりそうにもない。
 遂に主任を川に叩き込んでしまおうと云い出した。これはたまらないと思っていると、幸いにもその時、平常心安くしている朝鮮人で、の長でもある人が仲に入ってなだめてくれたので、命だけはとりとめる事ができた。
「ひーひー」と変な悲鳴を上げながら、顔中血だらけにして、主任はやっとのがれ出る事が出来た。
「お父ちゃん、日本刀持ってくればよかったのに」
 大声で泣きながら子供が声を出す。
「いや、持ってこんでよかった。大事の前の小事だ。若し私が朝鮮人でも殺したらそれこそ大変なことになる。自分さえ辛抱すればそれですむ事だ」
 と主任は息を切らしながら云う。
「そうよ。正さん。これからはいろいろな事があるかも知れないのよ。もっともっと苦しい事が待っているかも知れないのよ。そんな時じっと辛抱して、頑張らなくてはならないのよ。日本が戦争に負けたから仕方がないの」
 と奥さんが子供に教える。
 子供はそのお母さんの深い意味がわからないので、
「そんな事はない。日本刀で切ってしまえばよかったんだ」
 と叫んでやまない。
 主任はみちの側を流れる小川で、顔や手足の血を洗い流し、叩かれて腫れ上った体を引きずるようにやっと歩いて行く。
 哀れなかっこうで歩いていると、道路わきに親切な朝鮮人がいて、西瓜を食って行きなさいという。そして畠から西瓜をむしってきた。
「有難う、有難う」とお礼を云いながら、私達一同はその西瓜をごちそうになる。主任の顔の傷からは、まだ血がにじんで痛々しい。
「あの三人はなぜあんなに私達をいじめたんだろう」
 と私がいくと、
「さっきの三人は、米の供出を拒んだので、あの三人の父が主任にこっぴどく叩かれて病気になってしまったんだ」
 と主任が云った。
 三人の若者に散々に叩かれ、いじめられた私達は重い荷物を持って、子供達の手を引いて伊川へ伊川へと歩き続けた。   (つづく)
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