古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

父の『引揚げ記』  (10)

2017年10月16日 02時06分47秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
田舎では一番晴れてほしい「稲刈り」のときなのに、雨のよく降る天気がつづきます。きのうの日曜日は、コンバインも動けませんでした。うちはウッドデッキにオーニングを繰り出して、黒豆の枝豆をあちこちに送りました。大志くん一家も枝豆にするのを手伝ってくれました。


  父の『引揚げ記』  (10)

    昭和二十年八月十五日 朝鮮の山奥で   ※ 漢字、仮名遣いは原文のままにしています。


 警察官は腰にピストルを下げて町中を歩き廻って警戒している。そんな物騒な毎日が続いている或る日、パンツ一枚だけはいた裸の日本人が入り込んできた。
 彼の言葉によると漢口から逃れてきたという。ソ聯兵が入り込んできたので夢中で山の中に逃げ込み、一週間も知らない山の中の道を歩き続けて、やっとここまで辿り着いたという。彼の持っているものといえば、五合ばはりの米だけである。彼はその米で山の中で炊事しながら夢中で歩き続けたのだという。若しソ聯兵が入ってくれば、真っ裸にされて、ソ聯領に連れて行ってしまうというのである。
 この男はこれから京城まで歩いて行くというので、伊川ではその男を保護し、食事や洋服を與えてやった。男は涙を流し、何度も何度も頭を下げ、多くの日本人に見送られて出発していった。
 そのうちにソ聯兵がどんどん侵入してくる、という噂が次第に広まってくる。一度ソ聯兵に捕まると、こっぴどくいじめられる。殺された者もあるとか或いはソ聯領に引っ張られて行ったとかいう噂が流れて、伊川の日本人は「ここにいては危ないな。早くどうにかしなくては」と皆がささやき合った。
 そこで警察が世話をして、一般市民は京城まで引揚げる事になった。各人は手廻りの荷物一個ずつ持ってトラックに乗れという事であったので、皆トラックに乗り込む。
 ところがその一台のトラックに乗れない人々はどうする事も出来ず、後に残されてしまった。私もぐずぐずしている間に取り残されてしまった。取り残された人々は気が気でなかったが、どうにもなす術がなかった。
 頼りにしている警察の人々も、別の一台のトラックにたくさんの荷物と一緒に乗り込んで、春川へ引揚げる為に出発していってしまった。
 伊川には後にわずかばかりの日本人しかいなかった。そのわずかの日本人の中に取り残された私は、なす術もないので、例の腹の大きい奥さんをかかえている日本人学校の校長の家へ行く。
「いよいよ残されたなあ」
 と私がささやくと、
「私の家は子供が生れるまではどうしても動けない」
 と校長が云う。
「お気の毒ですなあ。それまでソ聯兵が入って来なければいいが」
 二人で話していると、そこに一人の朝鮮人巡査が入って来て、
「ソ聯がすぐそこまで入り込んで来たという通知があった。早く引揚げて下さい」
 と急いで知らせた。
 それはもう昼近い暑い夏の日であった。
 引揚げて行く私達一行は、日本刀を持っている警察官と他に校長をしていた人の二家族計十二名である。警察官の家が、親二人に子供三人、校長の家は親の外に小さな子供四人、それに私を加えて十二人なのである。
 十二名の日本人が目指すは先ず鉄原だということで、歩き出す。背に負った荷物は重く、気ばかり焦って足は思うように運ばない。ソ聯兵に追いつかれたらそれまでである。何度も何度も後を振り向いては歩き続ける。
 子供がいるのであまり早くも歩けない。とうとう堪えかねて、警察の人は皆を待っていることができなくなり、どんどん進んで行ってしまった。後の残されたのは校長の家族と私だけである。
「道路を歩いたらソ聯兵に見つけられる。山の中に入ろう」と校長は云う。
「この山を越したらどこかへ出るだろう」などと話ながら山に入っていく。いままで一度も登ったことのない山だから、どこをどう歩いていいかわからない。道がある方向に向かってどんどん歩く。だが歩いている間に進んで行く道がなくなってしまった。
「これからどうしたらよいだろう」
「この山を越したらどこへ出るだろう」
「鉄原まで辿り着いたとしても、鉄原はもうソ聯兵が来ているという事なのでどうにもなるまい」
 行く先は全くの暗闇である。
「まあとにかくご飯を炊いて腹ごしらえをしよう」
 と校長の奥さんが云う。
 そういえばもうとっくに正午は過ぎて、午後二時になっている。皆は飯を炊くとそれをお握りにしてぱくぱく食べた。腹ごしらえが出来ると少し元気になる。
「こんな道のない山の中を歩くより、よくわかる道路に出て歩こうではないか」
 という相談がまとまり、再び一度歩いた事のある道路に出た。    (つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする