虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

武蔵終焉の地 霊厳洞

2011-08-18 | 日記
草枕の里から熊本に向かう途中に「霊厳洞」の標識を見たので、寄ることにした。
霊厳洞に向かう道の丘に五百羅漢の座像がたくさん、道行く人を見ながら座っている。首のない像、顔が半分ないものなど、こわれたものが多い。剣術好きの子供が、ここを走り回りながら、羅漢さんを練習相手に木刀でたたきこわしたのだろうか、と思った。首のないこわれた羅漢さんは、無惨だし、ちょっと不気味だ。

説明板を読むと、これは、大地震と明治の廃仏毀釈によって破壊された、とある。仏さんを壊すなんて、維新の廃仏毀釈の異常さを感じた。この五百羅漢像は、江戸時代、武蔵の時代よりもあとに、商人が石工に作らせたそうだ。武蔵のころにはなかった。

霊厳洞は、中には入れない。入り口に格子があって、中に入れないようになっている。中には岩戸観音像がある(秘仏)。武蔵は、この中で五輪書を書き上げる。変わっているよな。近づけん人だよな。武蔵は自らを伝説化しようとしたのだろうか?

近くには、(たしか)お土産屋も、宮本武蔵を解説したような立て看板もなく、そっけない。
やはり、修業の場としての神聖さを守っているのかもしれない。

武蔵の二天一流は熊本で広まり、あの宮崎兄弟の父、宮崎長蔵も二天一流の武芸者として知られていた。熊本の武芸者にとっては、ここは聖地なのかもしれない。



お、なぜか、画像を複数、ブログにのせることができたぞ。はじめてだ。ちょっと大きすぎるけど。まあ、進歩だ。

前田家別邸(草枕の宿)

2011-08-18 | 日記
先日も書いたけど、小天町の草枕温泉の露天からの眺めはすばらしい。一望に有明海、雲仙が見える。これで500円は安い。小天町は、俳優の笠智衆の生誕地でもあるようで、温泉には、笠智衆の資料も展示してあった。

さて、草枕の舞台となった前田家別邸(那古井館)は、この温泉の下、車で5分も降りたところにある。無料で、だれもいなかった。

ここは前田案山子の別邸。前田案山子とは、細川藩の槍の指南役をしていた武芸の達人で、明治になってからは、農民のために尽くそうと名前を案山子と改名、自由民権運動家として活動、第一回衆議員議員になる。この別邸には、中江兆民やら岸田俊子やら全国から民権家が訪ねてきた。

前田案山子の次女が、「草枕」の「那美さん」のモデルになった卓(つな)さん。父の影響を受けたのか、武芸に優れ、剛胆、自由に自分の考えを表明する人だったそうだ。「草枕」の中では、村人からは「キ印」と噂され、「変な女」として見られていたように書いてある。妹、滔天のヨメの槌さんからの依頼で、宮崎家に住み、東京で「民報社」の仕事をし、中国革命の手伝いをすることになる。中国に渡ったときには、「わたしの体は、日本よりも中国があっている」と言ったそうだ。明治の新しい女性だ。

三女が、宮崎滔天のヨメさんになった槌(ツチ)さん。12歳のとき、岸田俊子が来訪したとき、「学問の勧め」という題目で演説した、という女の子だから、溌剌とした志ある女の子だったのだろう。滔天と結婚してからは、石炭販売業やら、下宿屋から、子供を養うためにさんざんの苦労を舐めるが、田中正造の谷中村闘争では、積極的に応援している。

末っ子が前田利鎌。卓さんが、養子にして東京で育てるが、この人も剣道の達人。中国哲学の理解が深く、彼の著作「臨済・荘子」は、岩波文庫になっている。戦後、「荘子」解釈では、福永光司が最高のものだが(最近、講談社の学術文庫にも入った)、福永は、「わたしの荘子理解は、前田利鎌に一番影響を受けた」といっている。利鎌はそういう天才なのだが、若くして病死した。

そういうわけで、この前田家の子供達は、みんな中国に関わりを持つようになる。これも滔天のせいかなあ。

ついでに、「草枕」。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」。

有名な書き出しだ。語り手は絵描きで、東洋的非人情の世界を求めて、山路を登る。俳句的小説といわれるが、いや、実によくしゃべる(心の中でだが)。花を見ても鳥を見ても、石ころを見てもつぶやきをやめない。実に気の多い人物だ。前半は、語り手の独白で、会話は少ないが、後半、宿で、卓さんをモデルにした那美さんが現れると、それまでの調子に変化がおきる。漱石はやはり「会話」がおもしろい。

絵描きは那美さんに話す。「こういう静かな所がかえって気楽でしょう」「気楽も気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうにでもなります。蚤の国がいやになったって、蚊の国へ引っ越しちゃ、何にもなりません」「蚤も蚊もいない国にいったらいいでしょう」「そんな国があるなら、ここへ出してごらんなさい。さあ、出して頂戴」
絵描きは、絵をさらさらと書いて示す。「さあ、この中へお入りなさい。蚤も蚊もいません」とつきつけると、「まあ、窮屈な世界だこと。横幅ばかりではございませんか。そんな窮屈な所がお好きなの。まるで蟹ね」と笑う。

また、宿に来る途中、二人の男に求められ、悩んだ末、池に飛び込んだ悲しい女性の伝説の話を聞いたのだが、那美さんにその話をすると、「つまらないこと」と答える。「あなたならどうしますか」と問うと、「どうするって、わけないじゃありませんか。ささだ男も、ささべ男も、男妾にするばかりですわ」「両方ともですか」「ええ」「えらいな」「えらかあない。当たり前ですわ」「なるほど、それじゃ、蚊の国へも、蚤の国へも飛び込まずにすむわけだ」「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょ」。

漱石は、この那美さん、前田卓さんに完全に参っていたのではなかろうか。