虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

万田坑 三池炭鉱

2011-08-14 | 日記
荒尾市の万田坑。
あの異様な形をしたヤグラ。あれは何だろう、と前から思っていたのだが、あれは、一種のエレベーターで、ワイヤーロープで資材や人を地底に下ろす装置だ。横の建物には、その巻き上げる機械がある。
この万田坑では、ガイドの方が約1時間にわたって、周辺の施設の説明をしてくれる。建物の中もヘルメットをかぶって見学することができた。見学料400円。その価値、十分ありだ。

なぜ炭鉱に興味を持ったのだろう。
理由はいろいろある。
一つは、わたしが閉所恐怖症だからだ。病院のMRIでも恐怖を感じるのだから、あの地下200m以上の地底では1時間も滞在できないはずだ。
明治初期の人々もおそらく喜んで地底にもぐる人は少なく、当初は政治犯の囚人(自由民権の闘志など)、中国や朝鮮から強制連行された人々も多かったと聞く。

地の底で真っ黒になって働く人々や家族が、日本の近代を支えてきたという思いが強い。

子供のころ、テレビで三池闘争のニュースがよく流れたのも印象に残っている。戦後最大の労働運動だった。「月が出た出た」という歌がはやったのもこの頃だったかな。

上野英信や鎌田 慧のルポルタージュ、山本作兵衛の絵も忘れがたい。
ここの施設では、あくまでも三井などの財閥の近代化産業遺産として、遺跡を保存しているようで、坑夫、労働者の生活、悲惨さ、また、事故などはあまり強調していない。三池闘争にも深くはふれない。「原子力村」ならぬ、ここは一大「三池炭鉱むら」だったのだから。

風呂は三つあった。最初に真っ黒なままで入って泥を落とし、次、2番目の風呂、そして3番目の風呂と入って体を洗う。女性も働いていて、記念館などの模型人形では着物を着ているが、実際は、山本作兵衛の絵にあるように、腰巻き(ふんどし?)だけの裸で働いていた、という話もしてくれた。

といっても、ガイドさんも、三池闘争のころは、16歳くらいだった、というから、実際に地の底で働いた経験があるのかどうかはわからない。

中川雅子さんの「見知らぬわが町」ではないか、だれでも、ここで、きっととても悲しいことがあったにちがいない、という思いを抱いてしまう。失われ、消されていった人々の霊がどこかにいるような感じだ。




夏の旅 熊本

2011-08-14 | 日記
無事に帰ってきました。

1日目は一気に九州に入り、小倉で泊まる。今回の旅では、宿はすべてスーパーホテル。朝食はバイキング。夜は、近くの大衆食堂。スーパーホテルは家族旅行客、一人旅客、けっこう多い。安いのがいい。

2日目、高速道路は熊本の手前の南関で降り、まず、荒尾の万田坑(三池炭鉱の遺跡)、同じく荒尾の宮崎兄弟生家・資料館を訪ね、そのあと、草枕の里、草枕温泉というところで汗を流す。入湯料は500円。有明海を眺望できるいい温泉です。近くにある前田案山子別邸(漱石が滞在した部屋)も見学。熊本へいく途中、武蔵の終焉の地になった霊巌洞にも寄る。

3日目。阿蘇をめざす。阿蘇の火口付近まで車で登ることができる。火の国熊本のメッカ阿蘇、さすが観光客が多かった。ちなみに昨日、訪ねたところは閑散。
阿蘇から、宮崎の高千穂峡まで足を伸ばす。渓谷を散歩してから、熊本に帰る。

4日目、高速に入る前に田原坂を寄ることにした。田原坂公園として整備されていて、弾痕の家、資料館、慰霊塔などが建っている。朝、早かったので、資料館には入らなかった。田原坂を出発すると、また車のナビが狂いだした。墓地などを訪ねたとき、ろくに挨拶もしないで、礼儀を守らなかったときなど、よくナビが異常になるんだ(笑)。この日は倉敷まで一気に車を飛ばし、倉敷泊。

5日目。ゆっくり倉敷を見学。川船に乗ろうと思ったところ、お昼まで予約でいっぱいなのでやめにした。大橋家住宅というのがあって、中に入ったが、入場料500円とあったので、回れ右して出た(笑)。ここは、あの立石孫一郎の大橋家なのだろうか?(まだ未調査)。骨董屋みたいなお店で、三度笠を600円で売っていたので買う。旅人はこれをかぶって旅をし、喧嘩の時は、思い切り空に投げる笠だ。ほんとは、一揆の蓑笠がほしかったが、高かった。
どこも道はスイスイだった。ただ、帰り、西宮ー宝塚間で事故があり、1時間半の渋滞にはまった。熊本城を見るのを忘れていた。

以上、主な行程だけさらっと書きました。時間ができたら、また個別にも書いてみたい。
ここは、写真は1枚しかのせられないので、画像はうしおに堂日録の方にものせるかも。