虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

阿蘇と漱石「二百十日」

2011-08-06 | 読書
来週、阿蘇へいく。
昔、一度通り過ぎたことがあるのだけど、あの雄大な景色をもう一度見たいと思っている。

阿蘇といえば、漱石の「二百十日」だ。
圭さん碌さんの二人の青年が阿蘇を登りながら、国の改革をしなくてはならん、と気勢をあげる。全編、ほとんど会話で、かけあい漫才のようで、読みやすい。

阿蘇の雄大な景色を見ながら、二人は話す。

「「僕の精神はあれだよ(阿蘇)」と圭さんが云う。「革命か」「うん。文明の革命さ」「文明の革命とは」「血を流さないのさ」ー略ー「相手は誰だい」「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴等さ」「うん」「社会の悪徳を公然商売にしている奴等さ」「うん」「商売なら、衣食の為という言い訳も立つ」「うん」「社会の悪徳を公然道楽にしている奴等は、どうしても叩きつけなければならん」「うん」「君もやれ」「うん、やる」。

明治39年の作品。100年以上も前だ。

原発事故をきっかけに、政府、東電、役所、メデイア、いわゆる支配層たちの、無責任、無道徳反国民性を国民は目にした。しかし、ことは原発問題だけではない。外交しかり。国民の知らないところで、国民のためではなく、米国の政策に従う外交・防衛もしかり。年金もしかり。税金もしかり。裁判制度もしかり。この国のほとんどのしくみが、金力や威力のあるものに独占され、国民はそのつけを負わされる。ため息が出るではないか。漱石なら、圭さん碌さんなら、このありさまをどう思うだろうか。

漱石の「二百十日」の終わりはこうだ。

「例えば、今日わるい事をするぜ。それが成功しない」「成功しないのは当たり前だ」「すると、同じ様なわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、悪いことを同じように重ねていく。重ねてさえいけば、わるい事が、ひっくりかえって、いい事になると思ってる。言語道断だ」「言語道断だ」「そんなものを成功させたら、社会は滅茶苦茶だ。おい、そうだろう」「社会は滅茶苦茶だ」「われわれが世の中に生活している第一の目的は、こういう文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安堵をあたえるのにあるだろう」「ある。うん。あるよ」「あると思うなら、僕といっしょにやれ」「うん、やる」「きっとやるだろうね。いいか」「きっとやる」

漱石といえば、政府が発行するお札にまでなっている文豪大家だ。で、教科書などには、こうした漱石の志士的な文脈は出さないし、文学評論家なども、漱石の過激な社会的発言などはあまり注目しない。しかし、漱石にはあの「坊っちゃん」的な、幕末の志士的なところがある。今、生きていたら、若ければ、きっとデモにも出たいと思う人なのだ。