虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

萩尾伊代太郎② 無役地

2009-08-15 | 宇和島藩
史料は、物理や化学の教科書を読んでいるような感じ。いや、英文を読む感じか。日本語のはずなのに、よく意味のわからないところがあり、ところどころだけわかるいうような状態。
めんどうなので、各章の一部分だけ適当に紹介。無役地とは何なのかなんとなくわかるかも。

第4条

庄屋の役地を耕作する方法は、村民の中より順番に田植え役、農役など村方の話し合いにより各人の分担を決め、役地を割りつけ、その主要な業務は少しも庄屋の預かるところでなく、みな純然たる村民の負担です。だから、無役地は、一村共有地を代表する1個の法人です。

第5条

当時、徴税法は年貢といわず、御物成と呼びました。半額以上の税率で、負担が重いので、農民は当時、本百姓になるのをいやがりました。

第7条

廃藩置県のあと、突然、庄屋は役料地という理由でこれをひきあげ、後役の給料にあてたのは、すなわち村有地たる確証を示すものです。

第8条

明治5年に庄屋役地は村民に告知せずに保管を命じ、その収益を後役の給料にあてながら、庄屋の住宅に限り、役宅としてこれだけ村に返還したのはどういうわけでしょう。役宅と役地は同じ村有地なのだから、役地も役宅と同様の処置にすべきではないでしょうか。組頭家督は、庄屋役地と同じもので、これは明治7年に村有になっています。

第9条

当宇和4郡に限り、今日まで村民が貧しく、学校も皆無で、教育も低いのは、ひっきょう、祖先において均田の際、各耕地を村内に差し出したからで、庄屋役地も村内から割り出したものです。

第11章

旧庄屋という役義は1カ村の一名主で、村民と同格であり、村内で働く者に代わり、古来、被治者の義務役で、相当の報酬を与えられた一個のやとわれ人で、公民間の用達、周旋役です。だから、位階の点では村民と同じで、平民です。しかし、宇和島藩は、庄屋の給料は村民共有地から作られた米を村民から与えさせ、藩主もまた人民への義務として、村役料にあてる土地は無役地で、雑税を免除しました。庄屋は、当時の村吏であり、庄屋給料も村費である雑税ですから、雑税を産出するこの土地が村有地であることは明白です。

第12章

農民は、知識がなく、働くことの本分に安んじて、社会の交通に暗いため、つい文字のある者を知識人として尊敬する弊風が生まれ、庄屋役ごとき、文筆で生活を依存する村用人に村民は権利を奪われました。庄屋は村役を私物のように世襲とし、領主もまた年貢に害がないので黙認しました。給料も世襲のようになりました。しかし、いったん、事故があって、村役人の資格を失ったときは、同時に世襲であった給料地も村に返還したことは、大名や士族と同じです。庄屋世襲の役料地は村有であることは明らかです。

第13条

明治4年に旧藩主が庄屋役を廃止し、庄屋家督田畑をひきあげた処置は至当であり、6月に4分6分にわけてその4分を庄屋に与えたのは恩恵の情からでたものだと思います。しかし、残りの6分もいつしか庄屋の私物のようになっているのはどうしたわけでしょう。

第14条

庄屋の給料を生んだ無役地は、華士族の知行地にあたる土地と同じですから、庄屋廃止と同時に村内に返還すべきです。

第18章

隣りの藩、松山藩、今治藩でも、その庄屋役地は宇和島藩と同じですが、みな村内に返還し、村有地となっています。当宇和4郡にかぎり理由なく共有地を旧庄屋に渡しているのはどういうわけでしょう。

以上は、明治24年1月に伊代太郎が愛媛県知事勝間田稔に出した伺書。
このあと、伊代太郎は東京の行政裁判所に県知事を被告に訴えます。

当時、庄屋は富裕階級。村人は貧民でした。伊代太郎は100年前の「貧困」村を代表する活動家青年だったのかもしれません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。