虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

杵之宮結集(能勢一揆6)

2005-11-27 | 一揆
大助が村々に回した廻状には、こうある。

「その村々家別に1軒より1人ずつ今晩中、杵の宮に集まること。もし、集まらない村があったら、押しかけ、庄屋から上京の路用銀借用する」

はたして村人は杵の宮に集まるか。
地元の林蔵も何人かの村人に根回してはしていただろうけど、京都の帝さまに徳政を願い出る、ということは、村人の想像を超える計画だ。わざわざ京都まで?それでなくても、ご法度のデモ行進。
仕掛け人の林蔵にしたところで、裕福な家を少しばかり打ち壊して、米銭を借り出すくらいの暴れ方を考えていたかもしれない。大助の計画には驚いたはずだ。
しかし、廻状は出され、さいは投げられた。

日が暮れかかっても杵の宮にはまだ人が集まらない。林蔵も村を駆け回るが、反応はかんばしくない。杵の宮に集まれ、飯が食える!とでもいっただろうか。

日が暮れて、大助は林蔵に杵の宮の中にある寺の釣り鐘を乱打させた。驚いて集まる村人。それでも、杵の宮近くの村人30名くらいだったろう。
大助はこう言ったという。
「驚くにはおよばぬ。万民を救うために徳政を願い出る」
村人に趣旨を説明するとき、この杵の宮で、大助は人形をあやつったという風聞がある。「人形を自由に使い候て、いかなる事があろうとも、かくの如く人を使い候ゆえ、心配にはおよばず、怪我などはない」(浮世の有様)
人形を使ってアジ演説する一揆とはおもしろいではないか。江戸の薬屋は人形を使って売ったそうだが、大助も薬屋だったためだろうか。あるいは、能勢は浄瑠璃が盛んな土地で(現在、能勢には、浄瑠璃センターがある)、大助も得意としていたかもしれない。

また、大刀を抜いて、こうも言ったという。
「もし、不承知であれば、この場で斬る」
この言葉は必ず言わなければならない。この言葉があるから、村人は安心して参加できるのだから。どの一揆にも共通した強制の言葉だと思う。一揆の罪、責任は大助たち首謀者だけで、村人はやむなく参加したということで、お咎めはない。

杵の宮の鐘は朝までなり続け、深夜にかけ村人はだんだんふえてきた。「徳政大塩味方」「徳政訴訟人」という紙の幟をひるがえし、境内には篝火がたかれた。このとき、1村平均30戸として、周辺の村10ヶ村くらい集まったとして約300人にはなったろうか。しかし、京都にまで出るにはまだ人数が少ない。廻状は65カ村に回してある。

このとき、大坂から大助と一緒についてきた大坂玉造同心の本橋岩次郎と、今井藤蔵に雇われた三津平は事のなりゆきに肝をつぶし、夜の混乱に乗じて姿を消した。








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