虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

仁木直吉郎(美作改政一揆の義民)について

2007-06-29 | 一揆
直吉、または直吉良、直吉郎ともかく。
津山市の加茂町行重の真福寺の境内に、この人の義民碑がたっているようだ。
加茂町行重って、どこや、と地図でみたところ、津山市の北、山の中です。

この一揆は、津山藩領全土をまきこんだ大一揆(小豆島まで飛び火している)だけど、組織的、計画的なものではなく、直吉に続いて各地で立ち上がった。参加した階層も百姓ばかりか、、無宿人もいる。

ただ、はじめの発頭人が、直吉で、しかも、直吉は、一揆の頭取として、訴えの願書をもって自首した。永牢を申し付けられたが、翌年、大赦になったそうだ。しかし、慶応4年には死んでいる。

はじめはこうだ。直吉は、なんとかせんと、3人の仲間を呼んで相談。このさい、直訴しようと思う、と。仲間はそれでは村々の人に相談し、手紙も出してみようという。直吉、いや、多人数で相談などしていればそのうち人の心も変わる。ただ、3,5人が立てば、村の人々も立ち上がるだろう。わかった、ではいつ?と仲間が聞くと、まだわからん、師走のころになるか、決まったらまた言う、と別れる。

その夜、先刻仲間に話したが、話した以上、必ずもれることもある。もはや、のばすことはできない、と、翌日、仲間をよび、今夜、立ち上がることにした、願書はできている、と答える。えー、せめて一日くらい待てよ、準備もある、ととめるが、直吉は、いや、今晩、立ち上がる。どうやって、人を集める?と聞くと、それぞれ、松明を2,3丁ずつ用意し、荒坂峠に登り、六つ半時に、鯨波の声をあげよ、そのとき、寺の鐘をつかせよう。そうすれば一同、騒ぎ立てん。そのとき、とよばわれば、きっと大勢になる。
「案にたがわず村々より、てんでに松明ふりたて、火事かと尋ねる人もなし。よ強訴よとよばわれば、御城下さして押し出す有様、すさまじくも又恐ろし」(改政一乱記」

この史料の註によると、ここでいうとは、賎民身分のそれではなく、飢人、乞食の意だそうだ。また、農民が、自らをと名乗ったのは、百姓を同様の境遇に落とした領主に対する批判と、となのることによって、だれの支配もうけないアウトローとしての行動の自由を確保した、という意味があるとか。


行重村の直吉。自首する時に歌二つ。

「子は親を大事にかけよ親は子をまごを愛せよ別にわけなし」
「我と我が散るにあらねど山ざくらただその時の風に吹かれて」

直吉が牢にいるとき、他の地域の頭取も牢に入ってくる。大庭村の原田平六郎というもので、「30歳、生得強気にして、身の丈5尺6寸、眼中するどく、たくましき人品なれども、慈悲心深く万人にこえ、強きをひしぎ、小力を助ける人道なり」
という人だ。
この人が、牢で、直吉にあいさつ。。
「あなたは、この役所に自首なさったよし、うらやましく思っていました。わたしなどは、そんなこともできず、馬鹿者どもに召し取られ恥ずかしい」
直吉「ごあいさつかたじけない。歯は硬いとががあるゆえに早く損じ、舌はやわらかなる徳があるゆえに長くたもちます。生きるのは難しく、死するのは安いことです。わたし、手練とても足らず、後の納め方も考えず、安き死につき、こちらこそ、お恥ずかしいかぎりです」

直吉は牢内で病気になり、娘のお鶴が代わりに入牢を願い出たとかの話もあるらしい。

「美作改政一揆義民物語」(加茂郷土史研究会編)とか、「孝行和讃物語」(これは直吉の娘お鶴の物語らしい)の史料もあるようだけど、ちょっと手に入れるのは難しそう。



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