虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

新井周三郎 草の乱

2008-07-27 | 一揆
昔(7年前だ)歴史会議室に書いた記事をコピーしておきます。なにせ、会議室なので話は饒舌です。まずは、わたしのお気に入りの剣士新井周三郎から。映画では、ひげをはやしていたが、ひげはないほうがよかったのに。

甲源一刀流と秩父事件(1)
( 8) 01/08/06 22:22 10603へのコメント コメント数:1

甲源一刀流逸見(へんみ)道場は秩父市の小鹿町にありますね。「るるぶ」にも
のっていた(でも、秩父事件も甲源一刀流には1行もふれてないや。食べ物ば
かり(^^))

この道場は資料館にもなってるようです。両神村小沢口にあります。
明治17年の秩父事件には甲源一刀流を習った剣士たちも参加していますので、
今回はその剣士を紹介しますね。

秩父事件は明治の話ですが、なにせ明治になって17年しかたっておらず、参加
者も十分江戸を知っている年代です。それに、最後の百姓一揆といっていいほ
ど、一揆の伝統を受け継いでいるので、この部屋で書いてもいいよね?

新井周三郎 ニヒルな机龍之助をイメージするのは妄想しすぎかもしれませ
ん。

年は若い。事件のときは20歳。若いけど、甲大隊長になっています(秩父困民
党は、軍勢を甲乙の2つにわけました)。大幹部の一人といってよいでしょ
う。この周三郎が斬られた瞬間から蜂起勢の瓦解が始まるのですから、いかに
力だのみにされていたかわかります。6尺の巨漢、白面の美青年。この人も逸
見(へんみ)道場で甲源一刀流を学んだそうな。

男衾郡(埼玉県寄居町西ノ入村)の豪農の次男坊として生まれます。田畑山林
多数所有し、近郷近在の素封家だったそうです。妙善寺の寺子屋で卓抜な成績
をおさめた周三郎は、18歳のとき、上京。資産家だから東京遊学ができるん
ですね。当時の甲源一刀流の道場主逸見愛作と親しかった「雨宮春たん」とい
う人の学問塾、また剣道場に学ぶ、とあります。ということは、18歳までに甲
源一刀流をすでに習得していたのでしょうね。

教員検定試験にパスし、故郷に小学校教員(鬼石小学校)として帰る。このこ
ろ、自由民権の志士なんかはけっこう小学校の教員というのが多いですね。
欠食児童も多く、村の実態を知り、モロに国家権力とむきあう場所だったのかも
しれません。しかし、言い伝えでは、その小学校の同僚の夫人と恋仲になり、
その小学校を辞め、2人で秩父に。

秩父の石間の小学校に欠員があることを知り、石間を訪ね、そこで、困民党の
副総理になった侠客の加藤織平を知ります。加藤織平はちょうど蜂起の相談の
真っ最中。周三郎は一気にその話にのめりこみます。
「教員の念を断ち、一に細民救助に尽力せん事」を誓います。

蜂起前から、資金強奪などに周三郎は抜群の行動力と統率力を示します。11月1
日夕刻吉田村椋神社で一斉蜂起が計画でしたが、周三郎の1隊は早くも警官隊と
衝突、周三郎は巡査の首を一刀両断。しかし、周三郎の獅子奮迅の働きも4日間
で終わります。

11月2日に困民軍は秩父大宮(現秩父市)の郡役所を占拠し、本陣としますが、
11月4日、朝、捕虜にしていた警官に背後から突然斬られて重傷を追います。
新井周三郎が斬られた、ということは、味方にとっては軍の柱が倒れたという
ショックを与えたようで、その日の昼過ぎには本陣は解体、総理の田代栄助も姿
をくらまします。

周三郎、重傷をおいながらも、故郷の西ノ入村の妙善寺に潜んでいましたが、
11月9日多数の警官に包囲されます。しかし、甲源一刀流の剣の達人周三郎を
逮捕にむかうものは一人もなく、ただ包囲するばかり、結局、妙善寺の和尚
(周三郎の恩師)が説得して手錠をはめて警官に渡したそうです。

周三郎の訊問調書がおもしろい。
問い  目的は
周三郎 なにも目的はない。早く申せば当時気違いになっていたのだろう。
問い  こんな暴挙をおこして、どうしようと思ったのか
周三郎 (笑って)自分は大総督になろうと思った。
問い   大総督とは?
周三郎 日本陸軍の大総督なり

死刑になりました。行く秋に 今日は劣らぬ 心かな
蜂起直前、故郷に帰って老父に渡した辞世です。

       参考 井出孫六「秩父困民党群像」〔社会思想社現代教養文庫)





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