虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

討賊始末(1)

2007-07-10 | 歴史
画像は、烈婦登波の碑。山口県豊北にある。夫の仇討ちを求めて全国を旅した女性です。松陰は、登波から詳しく話を聞き、「討賊始末」という長文の記録を残しています。
10年ほど前にいったことがある。小さな歴史民俗資料館の後ろに立っている。
この碑文を書いたのは、松陰。10年ほど前に、これもパソコンの歴史フォーラムの会議室で話題にしたことがあるので、そのときの文をまとめてアップします。コメントとか省略したところもあるので、文の流れがわかりにくくなっているかもしれない。長いです。わたしも、もうすっかり忘れていました。


では、松陰さんが書いた登波の碑文を少しずつ紹介し、詳しいことは松陰の「討賊始末」で補うことにします。

吉田松陰全集第4巻(岩波書店普及版)に、碑文と「討賊始末」はのっています。

「烈婦、名は登波。長門の国大津郡角山村の宮番幸吉の妻なり。
父を甚兵衛といい、弟を勇助という。また、幸吉と職を同じうし、豊浦の滝部におり。
宮番の職は、神祠を掃除し、兼ねて盗賊をシュウ捕すれども、良民の歯するところとならず。而して、3人は任侠自負し、剣客博徒往々これに過る。
幸吉に妹松あり。枯木龍之進の妻となる。龍は備後の**なり。自らは石見の浪人と称し、妻を携えて諸国を往来し、撃剣を以って人に教ふ。」(碑文)

それぞれ暗い過去を背負った、恵まれない境遇にいる人物たちの登場です。
「討賊始末」で説明すると、登波の一家はもともと播磨荒川(兵庫)の百姓でした。
ところが、登波7歳の時、一家は貧窮に落ちたのか、姉の伊勢、弟の勇助とともに母親に連れられて下関にやってきます。国許では暮らしていけなくなったのでしょうか。父親もあとから、下関にきます。

母親は下関にきてほどなく亡くなり、父親は滝部村の神社の宮番になります。
姉の伊勢は俵山の宮番に嫁ぎ、登波もまた15歳の時、川尻山王社の宮番幸吉(23歳)に嫁ぎます。

この幸吉も長州の百姓だったのですが、やはり農業では食べられなくなり、母親と妹松を連れて下関に流れてきたのです。物貰いをするまで零落し、ついには、ある宮番に養われ、自分も宮番になるのです。

宮番というのは、当時は無宿などと同じく、零落したものが最後にたどりつく最下層の身分だったのでしょうか。
松陰は、「宮番といえば、乞食などにくらべて**よりまた一段見下げられるほどの者」と書いています。碑文でも、全集版でも伏字にしてあるのですが、もちろん、これは後の世の人が伏字にしたので、**は「エタ」の漢字だったと思われます。

百姓だったものが落ちぶれて、最下層の宮番になり、しかも、任侠を自負し、剣客や博徒と交わる、なんていかにも文政天保の時代相をあらわしてますね。

さて、次は枯木龍之進の出番だ。
名前がいい。
偽名であることは明らかですが、こんな名のつけ方にも、この浪人者の雰囲気が
想像できそうです。おれは、枯れ木さ、と自嘲し、笑うような知的な面影、着流
しの似合いそうな浪人者をついイメージしているのですが。
石見の浪人と称し、易占,棒術、剣術を指南しながら、諸国を回っていました。

事件がおきてから、約20年後、この浪人が死ぬ前にわかるのですが、実は、この浪人も出自は、備後三次(広島)の**ということで、差別される身分の人なのでした。しかし、だれもそれを知りませんでした。

だとしたら、この人が剣を学び、浪人姿で諸国を旅していたのも、自分の境遇からなんとか脱出しようとはかり模索していたのかもわかりません。江戸身分社会への怒りも胸に秘めていたかもしれません。実は、先妻の残した娘も一人おり、娘のためにも、将来をいかに生きるか、迷っていたような形跡もあります。

暗い過去を隠した、謎のような浪人。下関でたぶん酌婦をしていたであろうお松(幸吉の妹)と夫婦になり、夫婦連れで諸国を流浪しますが、きっと、お松さんの方から勝手についてきたのかもしれないよ(想像です)。


さて、碑文の続き。

「文政辛巳(文政4年)10月29日の夜。
 枯木夫妻は、幸吉と同じく、甚兵衛の家に会す。龍に先妻の一女あり。はじめ
 て8歳。時にこれを乞児小市の所に隠す。
 龍は、すなわちその妻を幸吉に託して、一人、上国に遊ばとほっす。
 その妻と幸吉とは、切にその非義を責む。
 龍、意色、殊に悪し。座客、為に、これを慰め、解く。
 而して、龍は、遂に松と婚を絶ちてまさに去らんとす。
 時に、夜暗く、雨、甚だし。甚兵衛、これを留め宿す。
 丑夜、龍、起きて、尽く、甚兵衛、勇助、幸助、および去妻を斬りて、去る。
 3人は即死し、一人、幸吉のみ、たえず」

碑文はいきなり凶行の夜の話に移り、これでは、わけがよくわからないと思いま
す。
で、もっと詳しい「討賊始末」の文にそって、お話します。

登波がはじめて龍之進と会ったのは文政3年の暮れです。
諸国をお松を連れて流浪していた龍之進は、夫婦連れで、この時、幸吉登波の家
にはじめて滞留するのです。翌年の正月、龍之進は、幸吉宅にお松を預けて、ひ
とり九州へ旅立ちます。
同年4月、龍之進は、今度は先妻の娘千代(9歳)を幸吉の家に連れてきて、預
かってほしいと頼む。上方に登る(仕官の口か?)ので、支度もある、その間、
見てほしい。上方の話が決着すれば、また迎えにくる、という。

半年後の10月28日。
因幡浪人田中文後という者が、龍之進の使いで幸吉の家を訪ねてくる。
「当家に龍之進の妻お松どのが滞留しているとのこと。明朝、大願寺まで連れて
 きてほしいといわれた」
幸吉「お松はいない。6日前から滝部村の甚兵衛の家にいっている。甚兵衛の息
   子勇助に似合いの娘が下関にいるとかで、その縁談話の相談をしにいっ 
   た」
二人が話していると、龍之進がやってくる。
「今晩は大願寺に泊まるつもりだったが、寺は都合が悪くなったようじゃ」
そして、幸吉に向かって言う。
「さて、幸吉どの、われらもいよいよ上方登りに決まった。今度は娘も連れてい
 くつもりで参った」
幸吉「娘を連れていくというからには、もうここには戻らないつもりだな。
   妹、お松はどうせここに置き去りにしていくんだろう。
   自分の暮らしがたちゆかなくなって食うものもない時にはお松や娘っ子を
   預けておきながら、ちょっと暮らしがよくなれば、お松を捨てて、御旅行
   かい。いったい、どうゆう了見だい。恥知らずめ。言語道断の不人情とい
   うものだぞ」とさんざんに罵る。

龍之進、しかし、言葉を受け流し、かたわらにいるいる因幡浪人の田中文後につ
    ぶやく。
    「貴殿に道々話したように、上方に登るのに、女房同道では、志願もか
     なわない。しかし、義理のある女房ゆえ、銀300目は渡すつもりなの
     だ」
幸吉「なに!銀子をつけて離縁するだとお!聞き捨てならん。下賎のおれたちだ
   が、そんな金は迷惑千万。いらねえよ!それほど離縁したければ、別れさ
   せてやる。ともかくお松のいる滝部村に行って話をつけよう。まあ、今夜
   のところは、おれの家に泊まりな」

で、この日は、龍之進、因幡の浪人は幸吉の家に泊まることになります。
家には、幸吉の妻登波、そして龍之進の娘千代もいます。

                 

いよいよ、事件当日です。

10月29日朝。龍之進、娘千代、幸吉、因幡の浪人文後の4人は滝部村の甚兵衛の
家に向かいます。道のり5里。
途中、ある渡し場で、龍之進は幸吉に「先に行っておいてくれ。このへんに用事
がある」と、娘を連れて別な道へ。
龍之進は、渡し守の小屋に立ち寄り、そこに泊まっていた無宿に娘を預かっ
てもらう。

夜五つころ、龍之進がやってくる。家には、甚兵衛、勇助、幸助、お松、因幡の
浪人がいる。(他に百姓1人も泊まっていたけど。)

龍之進が来るまで、幸吉は、お松、甚兵衛に別れ話の相談をしていたが、だいた
い、納得がいき、話もついていたようだ。お松も、このことは、以前から予測し
ていたのかもしれない。

さて、龍之進があらためて甚兵衛、幸吉に話をはじめると、幸吉やお松は、龍之
進の不実をさんざんなじり、ののしり、龍之進もまともに話しすることもできな
い剣幕だったそうな。しかし、結局のところ、離縁することに落ち着く。
龍之進は、手切れ金の300目のうち170目はすでに下関でお松に渡している。今は
30目しか所持してないので、30目を渡すが、残り100目は正月までには、この因
幡の浪人を通して必ずお松に渡す、と言うが、幸吉、お松とも、「なにいってる
んだ。金なんかいらねえとさっきからいってるじゃないか。馬鹿にするな!」
とののしるほどなので、お金のことも龍之進の腹つもりの線で決まり、離縁書も
渡して、話は終わる。

やっと、はなしが終わって安心したのか、龍之進は酒を1升買ってきてみんなに
ふるまい、後はみんななごやかに飲んだそうだ。

夜、子の刻を過ぎたころ。
龍之進「千代を近所に預けている。さぞや、待ちくたびれているだろう。すぐ出
    立する」
障子を開けると、外は闇夜で、雨。雨具の用意もない。
甚兵衛「今夜はお泊りなされい」
龍之進「しからば、しばし、休息させてもらおう」
と、奥の部屋で休む。

丑の刻過ぎ。
龍之進「もう出立しなくては。茶をわかしてくれぬか」

甚兵衛、勇助が起きて茶をわかし、飯の用意もしてくれる。いっしょに来ていた
因幡の浪人も起きて、いっしょに帰ろうとするが、外はまだ雨。この浪人はまた
寝てしまう。
龍之進は障子を開け何度も空を眺める。そのうち、みんな、また寝てしまう。

その時、ふと灯火が消える。
龍之進「お松、火が消えた。付け木を取ってきてくれ」と暗闇の中で言う。
松「付け木は仏壇の下にあるよ」と寝て答える。
甚兵衛「松、龍之進さまは、勝手不案内なんだから、わからないよ。松、おま 
    えが起きて火をつけてあげなさい」
松  「別れる人にそんなことする必要はないさ」と起きず。
甚兵衛「では、わしが付けてやろう」と火をつけ、外に薪を取りに出る。

その後、松、幸助、勇助、3人を龍之進は殺し、外から帰ってきた甚兵衛も龍之
進に殺されます。

まるで小説的な流れでしょう?でも、これは、わたしが空想して書いているので
はなく、松陰の文がほぼこうなっているのですよ。「討賊始末」は小説的なので
す。


討賊始末(2)

2007-07-10 | 歴史
では。碑文の続き。

「烈婦登波、変を聞き、急きょ、おもむき、すくうて及ばず。
 はじめ、復讐を以って請う。藩、為に、龍を追捕せしも獲る所なし。
 久しうして幸吉のキズいえしも、転じて他の症となり、ジョクにあること5 
 年、烈婦の看護つぶさにいたる。
 しかれども、烈婦、心常に、大讐のいまだ復せざるを悼み、また夫の病たやす
 く起つべからさるを料り、間に乗じ、夫に語るに志を持ってす」

さて、例によって、「討賊始末」から補足を。
事件当日、登波は川尻の家で一人留守番をしていたが、11月1日の日暮れに
走り知らせてくれるものがいた。(情報が入るのに2日もかかるのかな?)
「29日の晩、滝部で大変なことがおきた!くわしいことは「小触れ」の所(?)に飛脚がきている。すぐ、飛脚に聞きにいったほうがいいぞ!」

登波、その時、杓子を持って庭に起っていたが、その場から裸足のまま飛脚のも
とに駆けつける。

「4人斬られた。年寄りと若いのは即死らしい」との話。
それは甚兵衛、勇助に間違いないと、登波はすぐ庄屋大田何某の家に走り、
「今からすぐ、滝部村にいってきます」と伝えるが、庄屋は「夜、女一人でいくのは
道中、危ない。5、6人も元気な男と共にしないと、だめだ」と止める。

登波、再び、「小触れ」の飛脚のもとに行き、「一緒に連れてってくれ」と頼むが、飛脚は「夜が明けないと出立しない」の返事。登波は終夜、腰もかけずに、立ちながら待つ。明け方七つ時、登波にせかれて飛脚は起き、共に出立。2日の朝五つごろ、滝部につく。

役所からは11月1日に出張の役人がきて14日までに事件探索、処理は終わる。
一応、目明しなどを使って龍之進の行方を探らせるも、わからない。

登波は、ご慈悲によりどうか敵を討たせてください、と嘆願するものの、
役人は「ただ今は、そのようなことはあいならぬ。もし、敵の居場所が探し出し、しかるのち願い出れば、考えてもよい」との返事。

夫幸吉は登波の看病で傷はよくなってきたものの、なにせ数カ所の傷をうけたとかで、「大いにふぬけ」になり、身体も衰弱したのか、以前のような働きもできず、田畑にも出ず、病床でふすことも多かったそうだ。また、癲癇の病も発し、時々発病したそう。
病気がちの夫の看病しながら暮らす生活を続けること、5年。大変な生活だ!
5年目のある日、ついに、幸吉に打ち明ける。このままに月日を送っていたら、敵の跡もそのうち絶え果て、仇討ちもできなくなる・・・、と。
(つづく)
碑文の続き

「幸吉、大いに悦びて曰く。かの賊は既に汝が父弟の讐なり。また我が妹の讐た
 り。我、汝と偕老を契る。汝の父弟はなお我が父弟のごときものなり。今、 
 我、不幸にして病廃す。たとえ、汝を助けて讐を復することあたわずとも、な
 んぞ汝が志をさまたぐるに忍びんや。汝、すみやかに出でて賊を探せ。我も病
 少しくたいらかば、まさに汝を追うて汝を助くべけんのみ」と。
 烈婦、かつ泣き、かつ拝し、行装して家を出る。実に乙酉(文政8年)3月な
 り。時に年27。」

登波が夫に仇討ちの旅に出たいと話したところ、夫も同意し、おれも身体がよく
なったら、後から行く、すぐに行け、と賛成してくれたことになっています。
「盗賊始末」でもそうなっています。これは、登波が松陰やみんなに話したこと
なのでしょう。あくまでも仇を討ちたい執念のみで、それでこそ、藩から烈婦と
たたえられる。
しかし、仇討ちの旅に出た登波の真意は複雑かもしれません。

古川薫の短編「討賊始末」では、登波の口書には、龍之進への憎悪は見られない、
と書いています。お松や幸吉には敬称をつけず、龍之進には殿と敬称をつけ、お
松に批判的な印象もあるというのです。このためか、この短編ではお松と幸吉が
不倫の関係にあったようにも書いています(しかし、お松は幸吉の弟だから、そ
れも変だなあ、と思ったのだけど)。

龍之進が愛娘千代を登波の家に預けていたということは、龍之進は登波を信頼
し、登波も龍之進を信頼していたところもあったのかもしれません。

あるいは、龍之進自身にはそんなに憎悪はなくても、下賎の身分とされる宮番が
殺されても、藩は本気で犯人を探そうともせず、下手人を見つけてきたらなんと
かしてやる、といった冷たい態度に、憤りを感じたのかもしれません。よし、そ
れなら、犯人を見つけてきて、藩にもう1度訴えてやる、と。

あるいは、母を早くから失い、父も弟も殺され、子はなく、まったくの天涯孤
独、ただひとりの夫は半身不随で、ろくに働かず、毎日が看病の生活。村人から
は下賎の者ということで蔑まれ、嘲笑される日々。まったく、これ以上はないど
ん底のどんずまりの暗い悲惨な生活だったにちがいありません。

全てを捨てて、旅に出たい!

という気もおきたのではないでしょうか?旅に出る理由なら、ある。いや、仇討
ちという名目がなければ登波は旅立つこともできなかったでしょう。ゆけ!不幸
な登波よ!だね(笑)

長い12年の旅にでかけるのですが、龍之進の手がかりを発見したのは、旅の終わ
り、広島の吉田という所でです。
なぜ、吉田を訪ねたかというと、千代を預かっていたとき、「おまえの親たちは
国許でなにをしていたの」と聞いたことがあるそうな。その時、「馬沓を作って
吉田に売っている」と答えたそう。どこの吉田かは知らなかったけども、それを
思い出して、ついに見つけるのです。
しかし、これも不思議といえば不思議、娘から聞いた手がかり、龍之進のなまり
などから判断しても、もっと早く発見できたはずなのに。まるで仇討ちは旅の終
わりに予定していたよう・・・。

画像は、登波の父親が宮番をしていた八幡神社(豊北滝部)


                               




討賊始末(3)

2007-07-10 | 歴史
碑文
「烈婦、すでに家を出て、山陰より東上する。近江、美濃を過ぎ、伊勢より紀伊
 を回り,京畿諸国、捜索あますなし。ここにおいて賊また近くにあらざるを測
 り、中山より東下し直ちに南部の恐山を極め、奥羽を探り、関東を探し、北陸
 をへ、東海をめぐり、転じて南海をまわり、かえりて安芸を過ぐ。外にあるこ
 とけだし12年、辛苦つぶさに嘗め、しかるのちに、賊の在る所をけい察するを
 得たり。」

「討賊始末」では、登波が巡り歩いた土地をもっと詳細に書きとどめています。
まず、1年目。川尻(登波の家)--萩--石見--津和野--高津人丸社--浜田--
銀山大森--出雲--松江--大山--鳥取--但馬--丹後--若狭。

2年目。近江--美濃--伊勢--紀伊--高野山--和泉・河内--大和。
3年目。大和--伊賀--近江--大津---京都--丹波--大坂
このあと、何年目かわからなくなるけど、
美濃--木曾--信濃--善光寺--越後--新潟--陸奥--会津--仙台--南部の恐山--
津軽--出羽--岩城--常陸--江戸。
江戸を出て常陸の百姓屋市右衛門という家に泊まった時、ここで病気になり、
100日ほど床に着いていたそうだ。この時、年33歳ということだから、すでに6
年、しかし、まだ旅の半分です。

清河八郎もびっくりの大旅行です。諸国の名所や寺院などはくまなく巡っていま
す。仇討ちの旅でもあるだろうけど、登波の心中には、当時の庶民のかなわぬ夢
であった諸国めぐりも敢行してやろうとの気持ちもあったのではないでしょう
か。そのくらいの幸せは与えてやりたいよなあ、諸君!


さて、登波33歳の時、病にかかり、常陸の筑波郡若柴宿の百姓市右衛門の家で
100日ばかりも世話になります。とても親切にもてなしてくれたそうだよ。

元気になって、また、上総、安房等を回りますが、またここにもどってきて、親
切にしてくれたお礼奉公にということで、1両年、農家仕事の
手伝いなどをして住みこみます。

その後、また江戸--相模--伊豆--遠江--三河--奈良--紀伊の加田--阿波--
土佐--伊予--讃岐などを回りますが、また、この常陸の市右衛門宅に帰ってきま
す。よほど、この家が落ち着きやすかったのでしょうね。
故郷に帰ろうと思ったら、帰ることもできたのに、中国筋には近づいていない。

実は、病気になったとき、もう回復できないだろうと覚悟を決めた時、登波はこ
この主人に仇討ちを追っている身の上を話していたのでした。

この家には、登波より15歳年下の若者、市右衛門の次男がいました。「義気たく
ましく、あっぱれたのもしき男子にて」、名を藤五郎、じゃなくて亀松といいま
す。この若者(18か19歳)、突然、家に滞留しはじめた登波さんを見てドキドキ
し、そして、ぞっこんまいってしまったのかな。いつまでもここにいてよ、と引
き止めたのもこの若者かもしれません。

登波さんの話を聞き、「助太刀する!」と宣言。親は登波さんに同情はすれど、
かわいい息子が素性もわからぬ女性と旅をするのはやはり賛成はできない。しか
し、亀松はたとえ勘当されてもいっしょに行く勢いなので、親は「わかった。た
だし、大願成就したら、一人で帰ってこいよ」と言って許可する。

二人の旅が始まります。たぶん、亀松はうれしかっただろうね。楽しいことも
あっただろうなあ。よかった、よかった、だ。

二人は日光山、中禅寺、善光寺などに参詣、飛騨、加賀、能登、越前を回り、京
都から紀伊へ、そして四国へ。金毘羅さんを参詣したあと、船は安芸の広島へ着
く。その広島で初めて枯木龍之進の噂を聞く。
同郡に吉田という土地があることを登波は思い出し、ふたりは、いよいよ吉田に
足を踏み入れます。



吉田に龍之進の老母が住んでいるということを聞き出し、ふたりは吉田へ。

ふたりはこのように聞いて回ったそうです。
「わたしたち夫婦は関東者ですが、この辺に剣術指南の浪人者、名は忘れてし
まったのですが、その浪人は母親がすんでいるこの土地にも時々やってくるそう
です。そんな浪人をごぞんじないでしょうか」

ふたりは夫婦連れとして行動していたのですね。きっと気持ちもそうだったんだ
ろうね。
ある時、龍之進によく似た男が畑仕事をしているのを発見。登波はこの男にちが
いない、と思い、亀松に言う。
「もし、この男にまちがいなければ、懐剣にて斬りかかります。もし、返り討ち
にあえば、助太刀を願います」
「心得た!」

おそるおそる近づき、
「少々ものをお尋ねしたいのですが」と聞くと、その男、頭の手ぬぐいをぬぎ、
「なんでしょう」。
顔をよく見ると人違い。

「わたしどもは関東者で物詣でこのへんを通りかかったものです。わたしの近所
の者が先年、この辺で剣術指南をしているお方の門人になり、えらくお世話に
なったということで、1度、お礼を言ってきてほしいと頼まれたのです。名前は
覚えてないのですが、そんな御浪人さまをご存知ないでしょうか」

「うーん、そんな人はいるけど、年は40歳くらいだがなあ」

「わたしたちがお会いしたい方は50歳くらいと聞いています。わたしどもは無学
でよくわかりませんが、噂では、学問は達者なようですが、師匠取りをして達者
なものには見えないようなのですが(ちょっと、意味がわからない)」

「おお、それならば、龍之進のことではないか?」

「いえ、名前は聞いていないのですが」(と、わざと言う)

「おふたりは龍之進のお仲間か?」

「いえいえ、わたしどもは龍之進というお方がどんな人かぞんじませぬ。わたし
どもは、関東辺の小百姓でございます」

「この辺は**村にて龍之進も仲間です。あなたがたお百姓は、この辺に宿ること
はできませんよ(**とは被差別村の蔑称なので全集本では伏字)。ここから、2
里下ったところに、龍之進の母と兄が住んでいます。その辺で聞いてもらったら
詳しくわかるでしょう」

「わたしどもは伝言をたのまれただけのこと。しいてお会いするまでもありませ
ん。もし、お会いなされましたら、わたしたちのこともお伝えください」
と、ふたりはそこをそそくさと立ち去る。

ふたりが立ち去ったあと、この男、いぶかしそうにふたりを見て、
「龍之進が殺した男に娘がいたそうだ。もしや、それではないか・・・」という
独り言をつぶやくのが聞こえたそうだ。

「これにて、年来石見の浪人とのみ思いいたる枯木龍之進、実は、安芸御領の**
なる事は初めて知れり」(「討賊始末」)
                             


討賊始末(4)

2007-07-10 | 歴史
登波たちが龍之進の居場所を突き止めたのはちょうど桜の季節です。

登波たちは、男から話を聞き、胸はドキドキ、道を下り、安芸領備後三次の百姓
屋に一宿する。この辺が龍之進の母親が住んでいるという土地だ。
  田舎の場合は、百姓の家が今の民宿みたいに旅人を泊める施設も兼ねていた
  のかな?
その宿で龍之進のことをそれとなく聞く。
すると、
「その人なら、九州彦山(英彦山とも書く。福岡と大分にまたがる山。山伏の修
 験道場があった)に娘がいて、龍之進もそこに行っていて、近年はここにはあ
 まり帰ってこなかった。でも、一昨年ころよりここにも帰ってきたのだが、こ
 の春からまた旅行をして、ここにはおらぬ。とにかく、彦山にいってみなさ 
 れ」
話していると、老女と男が家の戸口に立ち、物貰いにやってくる。
宿の人は「ほれ、あれが龍之進の母と兄じゃ」と教えてくれるが、二人は顔をそ
らして黙っていたそうな。

翌朝、その宿を出て、また近所の宿に2泊する。
2晩とも、夜中、龍之進の家を外から探り、龍之進が不在なことを確認。
いよいよ龍之進は九州彦山にいるのは間違いない。
ひとまず、国に帰り、仇討ち願いを出そうと、ふたりは石見から、大森をへた、
萩松本に帰り、目明しの与八に相談、仇討ちを願い出る。しかし、与八は、一
応、在所に帰り、先大津の目明しを通して願い出た方がよいというので、故郷、
角山村に帰る。この時、天保7年4月。12年ぶりの故郷。

故郷に帰ると、夫幸吉は登波が旅だったあと後を追ったのか旅立ち、その後、行
方不明。

村人も登波のことはすっかり忘れ、むしろ、病気の夫をかかえた暮らしに耐え兼
ね、逃げた宮番の女としか頭のすみには残ってなかったのかもしれない。
その登波が見違えるほど垢抜けして、しかも、若い男と共に帰ってきた。

龍之進の娘千代は、事件の日、無宿の小市に預けていたが、小市の届けによ
り、捨て子ということになったそうな。ちょうど、その頃、彦山の山伏梅本坊が
その地にいて、彦山に連れかえって養女にしたそうだ。その後、名を兎伊(と
い)と変え、そこの山伏の妻となり、娘の母にもなっていた。



碑文の続きです。

「龍の女にて乞児の所にかくせし者は彦山の山伏が収養するところとなり、すで
に長じて人に嫁し、龍の母は備後の三次におり。故をもって龍、時に、或いは、
その間を往来す。烈婦、すでにつぶさに実を得、大いに悦びて国に帰り、事を
もって官にもうし、ふたたび復讐をもって請う。未だ許さず。
烈婦、家を出でて後1年、幸吉もまた病を力めて出でて賊を探りしが、その終わ
る所を知る者なし。烈婦、痛コクして志をとることますます堅く、急ぎ、彦山に
ゆきて賊をうたんとほっす。
烈婦の東海を歴しとき、一人常陸に留まること3年、援を求めて亀松を得たり。
亀松は筑波郡若柴駅の民なり。もとより、壮健、義を好む。烈婦の志を憐れみ、
復讐を助くるを許す。ここにいたり、首としてその謀に賛成し、よってともに
下関にいたりしも、代官所の追止するところとなれり」

さて登波は国元に帰っても、すぐ故郷に帰らず、萩に願い出たのは、故郷の先大
津の代官所では願いが聞き入れられないかも、と判断したのかもしれない(役所
仕事は遅いしなあ)。しかし、故郷に帰らされる。このままにしていたら龍之進
はいつなくなるかもしれない、と、亀松といっしょに滝部村へ行って墓参りをし
たあと、下関まで出る。すぐに彦山に行こうとしたのです。
しかし、そこに故郷の目明し松五郎の代理人が追いかけてきて、まず、故郷に帰
れ、といいます。萩の目明しが政府に登波のことを届けでて、政府も動き出し、
代官所の指揮もとってくれる。待て、というのだ。この目明し松五郎はその後も
登波に協力的な人ですが。

萩政府ではいろいろ議論があったようです。萩で矢来を組み、公然と仇討ちさせ
ようという意見もあったようですが、仇討事は当世のはやりではない、このさ
い、龍之進を政府の手で逮捕しようということになります。

5月、政府から先大津の代官所に通達がきます。
「登波という者から仇討ちの願い出があった。登波は故郷には縁者がなく、引き
受ける者がいない。よって、当分は代官所預かりにする。亀松は不義密通者につ
き、生国に帰らせるように。龍之進は九州におり、また芸州に老母あり、往来し
ている、と登波が言っている。殺人犯なのでひそかに探索し、召し取るべし」
ざっと、こんな内容です。

しかし、事態はなかなか進まず、この後、5年間も役所からは、音沙汰なしの状
態が続くのです。


さて、登波、亀松の二人は、6月、大庄屋の家に呼び出され、代官所からの
お達しを読み聞かせられる。
亀松は不義密通者にて帰るべし、と言われると、亀松、ほろほろと落涙。しか
し、かしこまりました、と頭を下げる。登波、その方も異存はないな、と大庄屋
から問われると、登波は返事もできなかったそうだ。ショックだよ。
ふたりの様子を見た大庄屋は今晩、もう1度、二人で熟慮せよ、明日、もう1度、
確かめる、と言ったそう。
松陰は「亀松は数百里の遠路、ひとかたならぬ艱苦を凌ぎ、事によっては一命を
も打ち捨つべくと任侠の気節を少しも諒せられず、かえって不義密通の者などと
チュウ辱さるる、さぞかし、無念にやありけん」と書いています。
藩としては、他国者の男を連れて帰ったのが、気に入らないのだ。

ふたりの最後の晩、ふたりは何を話し合ったのでしょうね。これは各人の想像に
ゆだねましょう。

翌日、ふたりは、亀松が帰国することに同意したことを告げる。
この時、庄屋は帰国の費用として2両を渡され、「他国者にて長逗留できないの
で帰る、帰国費用として2両もらった、登波の仇討ちの話は帰国しても他言しな
い」という1札を書かせられる。

亀松、6月に去る。
登波はしばらく目明し松五郎方で世話になり、そのうち組合の世話で角山村に家
を構えたそうな。

登波は毎日、松五郎に龍之進はどうなりましたか、とせっついて聞くも、松五郎
は「ただ時を待て、時を待て」とのみ言うばかりだったそうな。
なにせ、他国に関わることだし、上の立場のものがほんとに腰をあげないと捕物
はらちがあかないのかもしれない。

松五郎も萩の目明し与八などとともに彦山へ隠密探索しています。
龍之進は佐竹織部と改名し、京都の公家中山家ともつながりを持ち、暮らしぶり
も裕福で、時々、彦山と安芸を往来していることもわかっているのです。

待つこと5年、天保12年3月、枯木龍之進、彦山の麓で逮捕したことを彦山の目明
しから、下関の目明しに、そこから先大津の目明し松五郎に知らせがくる。松五
郎は萩に注進する。

ちょっと目明しについて思ったのだけど、目明しというのは、国がちがっても連
絡網があるというか、協力体制ができているのですね。
また、彦山の目明しから書状で知らせがあったのだけど、「龍之進の身柄を捕ま
え、預かっている、身柄を引き取りにきてほしい」ということを候文で書いてあ
る。目明しも文が書けないといけないんだなあ。

枯木龍之進親子の運命や、いかに。(次回で)
                         

彦山の目明しの書状の日付は3月10日。
松五郎が萩へ注進したのが3月14日。
15日、夜、松五郎同道のもとに横目、目明しなど、萩出立。
17日、下関着。
19日、彦山の目明しのいる所に着。登波は行かせてもらってません。
しかし、松五郎が着いた時、すでに龍之進は死体になっていました。


彦山の目明し好助の語るところを聞いてみましょう。

佐竹織部(枯木龍之進)は、去年も何度か彦山に登り、ここの政所坊へ借銀の
口入取引などをしにきていたようです。で、政所坊へ、もし、織部がここに来た
ら知らせてくれるようにしていました。
3月9日、織部が来た、との連絡が入りました。しかし、翌日、急に出立した、と
の連絡。織部の娘千代はここの宝蔵坊の妻になり、7歳になる娘がいる。この娘
がわたしらの動きを知って織部に知らせたのかもしれない。
逃げた、と思って、われわれは方々に手配しました。
彦山の一の宮谷で、手先が見つけ、知らぬふを装って道連れになりました。隙を
見て、棒で足を殴り、たおれたところを頭をなぐり、他のものは織部の大小をす
ばやくぬきとったのです。刀を奪われては剣術使いもどうしようもありませんわ
な。
わたしは尋ねました。
「その方は20年前、枯木龍之進と名乗り、萩御領内で、宮番の家族4人を殺害し
た者に間違いあるまいな。」
龍之進は、
「相違ありません、しかし、3人は死んだものの、1人は全快したと聞いていま
す」と答えました。
「おまえは、芸州の**であるように聞いているが相違ないか」
「いえ、まったく左様の者ではありません。石州郡賀郡都治村出生のもので素性
正しき者でございます。」
「人を殺したことに相違なければ、萩の捕り方に引き渡す」
で、手を縛り、猿轡をはめ、私宅に連れゆき、多数の番人に見張らせておきまし
た。

実はこんな話もございます。
織部が佐竹渚という若者を連れてきて、この彦山の坊に住まわせておるのです
が、織部の息子ではないかと噂されていました。織部が逮捕されると、この佐竹
渚は急に姿を消してしまいました。で、渚はやはり息子だな、と聞きました。
「いえいえ、まったく倅ではなく、なんの縁もない者です」
わたしはわざと言ってやりました。
「渚は見逃してやる」
織部は「お心入りの段、ありがとうございます」と礼を言ったよ。

また、わたしにこうも頼みました。
「白木綿その他、娘兎伊(とい、千代)に渡してくれないでしょうか。あの者も
いずれこの山内には住めなくなるように考えられます。銀も渡しておきたいので
すが。木綿1反はどうぞあなたに差し上げます。お願いします」
わたしは木綿を受け取るのは断りました。
「長門に渡されては命ももはやないものと思います。どうか観音経をお持ちでし
たら、貸していただけないでしょうか」と言うので、わたしは持っていた観音経
を渡してやりました。
話しが長くなりましたので、ここまでにします。あとは、萩からの迎えを待つば
かりです。(目明し好助)


3月14日の夜、番人が眠っているすきに龍之進,脱走。
升田村密ケ嶽に逃げ込み、山の前後より捕り方は追い詰める。
15日の朝、中元村馬場という所で発見。龍之進、もはや逃げ場はないとあきらめ
たか、包丁にて腹を6寸切り、左手で腸をつかみだす。
捕り方はすぐ医師4人を呼び、腸を押し込め、腹を縫わせる。
16日の朝、快方に向かったのか食事もとったが、暮れになり、容体が急変し、死
去。龍之進、この時、54歳。

住所は石見郡と筑後久留米の2箇所にかまえ、金銀貸借口入業、また売ト剣術指
南を業としていたようだ。
娘兎伊(とい。千代)、このとき、28歳。父織部が召し取られたと聞いて、「娘
を差し殺し、自害したるやに風聞す。」と書いています。なんとも哀れだ!

3月24日,龍之進の死骸、萩に着く。仮埋されたあと、12月6日、あらためて斬
首。滝部村にて梟首。
登波がこれを聞いて、滝部村に急いだのは当然でしょう。

その時のようすは、碑文の続きで。

「藩、すなわち追捕を彦山に遣し、賊状を探間せしむ。天保辛丑(12年)3月、
賊、捕らえられて自殺す。よって滝部村に梟首す。
烈婦、走りて首の下につき、匕首をこれに擬し、にらみ、かつ罵りていわく。
汝、あに我を記するや。吾は甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、而して幸吉の
妻なり。汝、吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷け、また吾が夫の妹を殺す。
吾、ために讐を報いんとほっし、5畿7道、探討、ほぼつくす。しこうして、1
撃を汝に逞うするあたわざりしは、これ吾が憾みなり。しかれども、天道、国恩
は遂に汝をここに致すを得たり。汝、それその罪を知れ。汝、あに我を記する
や」

龍之進の首を前にした時、上のように登波は言ったということですが、はたして
真意だったでしょうか。仇討ちを願い出た登波の、藩役人や村人の前での言葉
だったかもしれませんが、心の中では龍之進には複雑な思いが去来したに違いな
いと思います。

一件落着したあと、登波はこのことを亀松に知らせに常陸に旅立ちます。しか
し、亀松も親も昨年死んだということを知らされるのです。その後、登波は亀松
と最初に旅した日光、善光寺を参詣して故郷に帰ります。

やり始めた以上は、最後まで、碑文をアップしておきますね。

「余、すなわち因って郡を巡りて、烈婦を引見す。烈婦、時に59歳。身体健全に
して、容貌、いまだ衰えず。それをしてその復讐始末を語らしむるに、感慨悲わ
ん、声涙ともに下る。余、その志を悲しみ、またそのことの久しくしてあるいは
ビン滅せんことをおそる。ここにおいて碑を建てて、文をロクし、その跡をき
し、その烈を表し、これに重ぬるに銘をもってす。銘にいわく。

混々たる原泉、海に朝宗す。洋々たる大魚、竜門に竜となる。いなるかな烈婦、しんかんこれ通ず。身いやしといえども、もんりよ、いさおを表す。(だいたいの訳。
清い泉の流れは大河となって、海に注ぎ、魚が竜になるように、登波のことは、お上にまで達した。すばらしい登波よ。登波の徳は藩主にまで届いた。身分はたとえ、卑しくとも、登波のことはいつまでも語り継がれるであろう)」ふー、以上で「登波の碑文」は全部です。

登波は夫幸吉のことはどう思っていたのだろう。登波のあとを追って旅立ち、その後、行方不明のままです。津和野で病死したという噂は登波も耳にしていたのです。

松陰がこの「討賊始末」を書いている時、松陰の友人松浦松洞という人が登波を訪ね、これほどの烈婦といわれている人が、夫の死所を探らず、そのままにしているということはどいうことか、と詰問したそうです。
すると登波は赤面したかどうか、すぐ津和野に旅立ちます。しかし、津和野で死んだのは紀伊の人で夫ではないことがわかり、ほどなく帰ってきます。この旅の途中に松陰のもとを訪ね、詳しく話したようです。

松陰がこの登波物語ともいうべき「討賊始末」を書いたのは安政4年。
松陰が刑死する2年前のことです。