虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

討賊始末(2)

2007-07-10 | 歴史
では。碑文の続き。

「烈婦登波、変を聞き、急きょ、おもむき、すくうて及ばず。
 はじめ、復讐を以って請う。藩、為に、龍を追捕せしも獲る所なし。
 久しうして幸吉のキズいえしも、転じて他の症となり、ジョクにあること5 
 年、烈婦の看護つぶさにいたる。
 しかれども、烈婦、心常に、大讐のいまだ復せざるを悼み、また夫の病たやす
 く起つべからさるを料り、間に乗じ、夫に語るに志を持ってす」

さて、例によって、「討賊始末」から補足を。
事件当日、登波は川尻の家で一人留守番をしていたが、11月1日の日暮れに
走り知らせてくれるものがいた。(情報が入るのに2日もかかるのかな?)
「29日の晩、滝部で大変なことがおきた!くわしいことは「小触れ」の所(?)に飛脚がきている。すぐ、飛脚に聞きにいったほうがいいぞ!」

登波、その時、杓子を持って庭に起っていたが、その場から裸足のまま飛脚のも
とに駆けつける。

「4人斬られた。年寄りと若いのは即死らしい」との話。
それは甚兵衛、勇助に間違いないと、登波はすぐ庄屋大田何某の家に走り、
「今からすぐ、滝部村にいってきます」と伝えるが、庄屋は「夜、女一人でいくのは
道中、危ない。5、6人も元気な男と共にしないと、だめだ」と止める。

登波、再び、「小触れ」の飛脚のもとに行き、「一緒に連れてってくれ」と頼むが、飛脚は「夜が明けないと出立しない」の返事。登波は終夜、腰もかけずに、立ちながら待つ。明け方七つ時、登波にせかれて飛脚は起き、共に出立。2日の朝五つごろ、滝部につく。

役所からは11月1日に出張の役人がきて14日までに事件探索、処理は終わる。
一応、目明しなどを使って龍之進の行方を探らせるも、わからない。

登波は、ご慈悲によりどうか敵を討たせてください、と嘆願するものの、
役人は「ただ今は、そのようなことはあいならぬ。もし、敵の居場所が探し出し、しかるのち願い出れば、考えてもよい」との返事。

夫幸吉は登波の看病で傷はよくなってきたものの、なにせ数カ所の傷をうけたとかで、「大いにふぬけ」になり、身体も衰弱したのか、以前のような働きもできず、田畑にも出ず、病床でふすことも多かったそうだ。また、癲癇の病も発し、時々発病したそう。
病気がちの夫の看病しながら暮らす生活を続けること、5年。大変な生活だ!
5年目のある日、ついに、幸吉に打ち明ける。このままに月日を送っていたら、敵の跡もそのうち絶え果て、仇討ちもできなくなる・・・、と。
(つづく)
碑文の続き

「幸吉、大いに悦びて曰く。かの賊は既に汝が父弟の讐なり。また我が妹の讐た
 り。我、汝と偕老を契る。汝の父弟はなお我が父弟のごときものなり。今、 
 我、不幸にして病廃す。たとえ、汝を助けて讐を復することあたわずとも、な
 んぞ汝が志をさまたぐるに忍びんや。汝、すみやかに出でて賊を探せ。我も病
 少しくたいらかば、まさに汝を追うて汝を助くべけんのみ」と。
 烈婦、かつ泣き、かつ拝し、行装して家を出る。実に乙酉(文政8年)3月な
 り。時に年27。」

登波が夫に仇討ちの旅に出たいと話したところ、夫も同意し、おれも身体がよく
なったら、後から行く、すぐに行け、と賛成してくれたことになっています。
「盗賊始末」でもそうなっています。これは、登波が松陰やみんなに話したこと
なのでしょう。あくまでも仇を討ちたい執念のみで、それでこそ、藩から烈婦と
たたえられる。
しかし、仇討ちの旅に出た登波の真意は複雑かもしれません。

古川薫の短編「討賊始末」では、登波の口書には、龍之進への憎悪は見られない、
と書いています。お松や幸吉には敬称をつけず、龍之進には殿と敬称をつけ、お
松に批判的な印象もあるというのです。このためか、この短編ではお松と幸吉が
不倫の関係にあったようにも書いています(しかし、お松は幸吉の弟だから、そ
れも変だなあ、と思ったのだけど)。

龍之進が愛娘千代を登波の家に預けていたということは、龍之進は登波を信頼
し、登波も龍之進を信頼していたところもあったのかもしれません。

あるいは、龍之進自身にはそんなに憎悪はなくても、下賎の身分とされる宮番が
殺されても、藩は本気で犯人を探そうともせず、下手人を見つけてきたらなんと
かしてやる、といった冷たい態度に、憤りを感じたのかもしれません。よし、そ
れなら、犯人を見つけてきて、藩にもう1度訴えてやる、と。

あるいは、母を早くから失い、父も弟も殺され、子はなく、まったくの天涯孤
独、ただひとりの夫は半身不随で、ろくに働かず、毎日が看病の生活。村人から
は下賎の者ということで蔑まれ、嘲笑される日々。まったく、これ以上はないど
ん底のどんずまりの暗い悲惨な生活だったにちがいありません。

全てを捨てて、旅に出たい!

という気もおきたのではないでしょうか?旅に出る理由なら、ある。いや、仇討
ちという名目がなければ登波は旅立つこともできなかったでしょう。ゆけ!不幸
な登波よ!だね(笑)

長い12年の旅にでかけるのですが、龍之進の手がかりを発見したのは、旅の終わ
り、広島の吉田という所でです。
なぜ、吉田を訪ねたかというと、千代を預かっていたとき、「おまえの親たちは
国許でなにをしていたの」と聞いたことがあるそうな。その時、「馬沓を作って
吉田に売っている」と答えたそう。どこの吉田かは知らなかったけども、それを
思い出して、ついに見つけるのです。
しかし、これも不思議といえば不思議、娘から聞いた手がかり、龍之進のなまり
などから判断しても、もっと早く発見できたはずなのに。まるで仇討ちは旅の終
わりに予定していたよう・・・。

画像は、登波の父親が宮番をしていた八幡神社(豊北滝部)


                               




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