虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

討賊始末(4)

2007-07-10 | 歴史
登波たちが龍之進の居場所を突き止めたのはちょうど桜の季節です。

登波たちは、男から話を聞き、胸はドキドキ、道を下り、安芸領備後三次の百姓
屋に一宿する。この辺が龍之進の母親が住んでいるという土地だ。
  田舎の場合は、百姓の家が今の民宿みたいに旅人を泊める施設も兼ねていた
  のかな?
その宿で龍之進のことをそれとなく聞く。
すると、
「その人なら、九州彦山(英彦山とも書く。福岡と大分にまたがる山。山伏の修
 験道場があった)に娘がいて、龍之進もそこに行っていて、近年はここにはあ
 まり帰ってこなかった。でも、一昨年ころよりここにも帰ってきたのだが、こ
 の春からまた旅行をして、ここにはおらぬ。とにかく、彦山にいってみなさ 
 れ」
話していると、老女と男が家の戸口に立ち、物貰いにやってくる。
宿の人は「ほれ、あれが龍之進の母と兄じゃ」と教えてくれるが、二人は顔をそ
らして黙っていたそうな。

翌朝、その宿を出て、また近所の宿に2泊する。
2晩とも、夜中、龍之進の家を外から探り、龍之進が不在なことを確認。
いよいよ龍之進は九州彦山にいるのは間違いない。
ひとまず、国に帰り、仇討ち願いを出そうと、ふたりは石見から、大森をへた、
萩松本に帰り、目明しの与八に相談、仇討ちを願い出る。しかし、与八は、一
応、在所に帰り、先大津の目明しを通して願い出た方がよいというので、故郷、
角山村に帰る。この時、天保7年4月。12年ぶりの故郷。

故郷に帰ると、夫幸吉は登波が旅だったあと後を追ったのか旅立ち、その後、行
方不明。

村人も登波のことはすっかり忘れ、むしろ、病気の夫をかかえた暮らしに耐え兼
ね、逃げた宮番の女としか頭のすみには残ってなかったのかもしれない。
その登波が見違えるほど垢抜けして、しかも、若い男と共に帰ってきた。

龍之進の娘千代は、事件の日、無宿の小市に預けていたが、小市の届けによ
り、捨て子ということになったそうな。ちょうど、その頃、彦山の山伏梅本坊が
その地にいて、彦山に連れかえって養女にしたそうだ。その後、名を兎伊(と
い)と変え、そこの山伏の妻となり、娘の母にもなっていた。



碑文の続きです。

「龍の女にて乞児の所にかくせし者は彦山の山伏が収養するところとなり、すで
に長じて人に嫁し、龍の母は備後の三次におり。故をもって龍、時に、或いは、
その間を往来す。烈婦、すでにつぶさに実を得、大いに悦びて国に帰り、事を
もって官にもうし、ふたたび復讐をもって請う。未だ許さず。
烈婦、家を出でて後1年、幸吉もまた病を力めて出でて賊を探りしが、その終わ
る所を知る者なし。烈婦、痛コクして志をとることますます堅く、急ぎ、彦山に
ゆきて賊をうたんとほっす。
烈婦の東海を歴しとき、一人常陸に留まること3年、援を求めて亀松を得たり。
亀松は筑波郡若柴駅の民なり。もとより、壮健、義を好む。烈婦の志を憐れみ、
復讐を助くるを許す。ここにいたり、首としてその謀に賛成し、よってともに
下関にいたりしも、代官所の追止するところとなれり」

さて登波は国元に帰っても、すぐ故郷に帰らず、萩に願い出たのは、故郷の先大
津の代官所では願いが聞き入れられないかも、と判断したのかもしれない(役所
仕事は遅いしなあ)。しかし、故郷に帰らされる。このままにしていたら龍之進
はいつなくなるかもしれない、と、亀松といっしょに滝部村へ行って墓参りをし
たあと、下関まで出る。すぐに彦山に行こうとしたのです。
しかし、そこに故郷の目明し松五郎の代理人が追いかけてきて、まず、故郷に帰
れ、といいます。萩の目明しが政府に登波のことを届けでて、政府も動き出し、
代官所の指揮もとってくれる。待て、というのだ。この目明し松五郎はその後も
登波に協力的な人ですが。

萩政府ではいろいろ議論があったようです。萩で矢来を組み、公然と仇討ちさせ
ようという意見もあったようですが、仇討事は当世のはやりではない、このさ
い、龍之進を政府の手で逮捕しようということになります。

5月、政府から先大津の代官所に通達がきます。
「登波という者から仇討ちの願い出があった。登波は故郷には縁者がなく、引き
受ける者がいない。よって、当分は代官所預かりにする。亀松は不義密通者につ
き、生国に帰らせるように。龍之進は九州におり、また芸州に老母あり、往来し
ている、と登波が言っている。殺人犯なのでひそかに探索し、召し取るべし」
ざっと、こんな内容です。

しかし、事態はなかなか進まず、この後、5年間も役所からは、音沙汰なしの状
態が続くのです。


さて、登波、亀松の二人は、6月、大庄屋の家に呼び出され、代官所からの
お達しを読み聞かせられる。
亀松は不義密通者にて帰るべし、と言われると、亀松、ほろほろと落涙。しか
し、かしこまりました、と頭を下げる。登波、その方も異存はないな、と大庄屋
から問われると、登波は返事もできなかったそうだ。ショックだよ。
ふたりの様子を見た大庄屋は今晩、もう1度、二人で熟慮せよ、明日、もう1度、
確かめる、と言ったそう。
松陰は「亀松は数百里の遠路、ひとかたならぬ艱苦を凌ぎ、事によっては一命を
も打ち捨つべくと任侠の気節を少しも諒せられず、かえって不義密通の者などと
チュウ辱さるる、さぞかし、無念にやありけん」と書いています。
藩としては、他国者の男を連れて帰ったのが、気に入らないのだ。

ふたりの最後の晩、ふたりは何を話し合ったのでしょうね。これは各人の想像に
ゆだねましょう。

翌日、ふたりは、亀松が帰国することに同意したことを告げる。
この時、庄屋は帰国の費用として2両を渡され、「他国者にて長逗留できないの
で帰る、帰国費用として2両もらった、登波の仇討ちの話は帰国しても他言しな
い」という1札を書かせられる。

亀松、6月に去る。
登波はしばらく目明し松五郎方で世話になり、そのうち組合の世話で角山村に家
を構えたそうな。

登波は毎日、松五郎に龍之進はどうなりましたか、とせっついて聞くも、松五郎
は「ただ時を待て、時を待て」とのみ言うばかりだったそうな。
なにせ、他国に関わることだし、上の立場のものがほんとに腰をあげないと捕物
はらちがあかないのかもしれない。

松五郎も萩の目明し与八などとともに彦山へ隠密探索しています。
龍之進は佐竹織部と改名し、京都の公家中山家ともつながりを持ち、暮らしぶり
も裕福で、時々、彦山と安芸を往来していることもわかっているのです。

待つこと5年、天保12年3月、枯木龍之進、彦山の麓で逮捕したことを彦山の目明
しから、下関の目明しに、そこから先大津の目明し松五郎に知らせがくる。松五
郎は萩に注進する。

ちょっと目明しについて思ったのだけど、目明しというのは、国がちがっても連
絡網があるというか、協力体制ができているのですね。
また、彦山の目明しから書状で知らせがあったのだけど、「龍之進の身柄を捕ま
え、預かっている、身柄を引き取りにきてほしい」ということを候文で書いてあ
る。目明しも文が書けないといけないんだなあ。

枯木龍之進親子の運命や、いかに。(次回で)
                         

彦山の目明しの書状の日付は3月10日。
松五郎が萩へ注進したのが3月14日。
15日、夜、松五郎同道のもとに横目、目明しなど、萩出立。
17日、下関着。
19日、彦山の目明しのいる所に着。登波は行かせてもらってません。
しかし、松五郎が着いた時、すでに龍之進は死体になっていました。


彦山の目明し好助の語るところを聞いてみましょう。

佐竹織部(枯木龍之進)は、去年も何度か彦山に登り、ここの政所坊へ借銀の
口入取引などをしにきていたようです。で、政所坊へ、もし、織部がここに来た
ら知らせてくれるようにしていました。
3月9日、織部が来た、との連絡が入りました。しかし、翌日、急に出立した、と
の連絡。織部の娘千代はここの宝蔵坊の妻になり、7歳になる娘がいる。この娘
がわたしらの動きを知って織部に知らせたのかもしれない。
逃げた、と思って、われわれは方々に手配しました。
彦山の一の宮谷で、手先が見つけ、知らぬふを装って道連れになりました。隙を
見て、棒で足を殴り、たおれたところを頭をなぐり、他のものは織部の大小をす
ばやくぬきとったのです。刀を奪われては剣術使いもどうしようもありませんわ
な。
わたしは尋ねました。
「その方は20年前、枯木龍之進と名乗り、萩御領内で、宮番の家族4人を殺害し
た者に間違いあるまいな。」
龍之進は、
「相違ありません、しかし、3人は死んだものの、1人は全快したと聞いていま
す」と答えました。
「おまえは、芸州の**であるように聞いているが相違ないか」
「いえ、まったく左様の者ではありません。石州郡賀郡都治村出生のもので素性
正しき者でございます。」
「人を殺したことに相違なければ、萩の捕り方に引き渡す」
で、手を縛り、猿轡をはめ、私宅に連れゆき、多数の番人に見張らせておきまし
た。

実はこんな話もございます。
織部が佐竹渚という若者を連れてきて、この彦山の坊に住まわせておるのです
が、織部の息子ではないかと噂されていました。織部が逮捕されると、この佐竹
渚は急に姿を消してしまいました。で、渚はやはり息子だな、と聞きました。
「いえいえ、まったく倅ではなく、なんの縁もない者です」
わたしはわざと言ってやりました。
「渚は見逃してやる」
織部は「お心入りの段、ありがとうございます」と礼を言ったよ。

また、わたしにこうも頼みました。
「白木綿その他、娘兎伊(とい、千代)に渡してくれないでしょうか。あの者も
いずれこの山内には住めなくなるように考えられます。銀も渡しておきたいので
すが。木綿1反はどうぞあなたに差し上げます。お願いします」
わたしは木綿を受け取るのは断りました。
「長門に渡されては命ももはやないものと思います。どうか観音経をお持ちでし
たら、貸していただけないでしょうか」と言うので、わたしは持っていた観音経
を渡してやりました。
話しが長くなりましたので、ここまでにします。あとは、萩からの迎えを待つば
かりです。(目明し好助)


3月14日の夜、番人が眠っているすきに龍之進,脱走。
升田村密ケ嶽に逃げ込み、山の前後より捕り方は追い詰める。
15日の朝、中元村馬場という所で発見。龍之進、もはや逃げ場はないとあきらめ
たか、包丁にて腹を6寸切り、左手で腸をつかみだす。
捕り方はすぐ医師4人を呼び、腸を押し込め、腹を縫わせる。
16日の朝、快方に向かったのか食事もとったが、暮れになり、容体が急変し、死
去。龍之進、この時、54歳。

住所は石見郡と筑後久留米の2箇所にかまえ、金銀貸借口入業、また売ト剣術指
南を業としていたようだ。
娘兎伊(とい。千代)、このとき、28歳。父織部が召し取られたと聞いて、「娘
を差し殺し、自害したるやに風聞す。」と書いています。なんとも哀れだ!

3月24日,龍之進の死骸、萩に着く。仮埋されたあと、12月6日、あらためて斬
首。滝部村にて梟首。
登波がこれを聞いて、滝部村に急いだのは当然でしょう。

その時のようすは、碑文の続きで。

「藩、すなわち追捕を彦山に遣し、賊状を探間せしむ。天保辛丑(12年)3月、
賊、捕らえられて自殺す。よって滝部村に梟首す。
烈婦、走りて首の下につき、匕首をこれに擬し、にらみ、かつ罵りていわく。
汝、あに我を記するや。吾は甚兵衛の女(むすめ)、勇助の姉、而して幸吉の
妻なり。汝、吾が父と吾が弟とを殺し、吾が夫を傷け、また吾が夫の妹を殺す。
吾、ために讐を報いんとほっし、5畿7道、探討、ほぼつくす。しこうして、1
撃を汝に逞うするあたわざりしは、これ吾が憾みなり。しかれども、天道、国恩
は遂に汝をここに致すを得たり。汝、それその罪を知れ。汝、あに我を記する
や」

龍之進の首を前にした時、上のように登波は言ったということですが、はたして
真意だったでしょうか。仇討ちを願い出た登波の、藩役人や村人の前での言葉
だったかもしれませんが、心の中では龍之進には複雑な思いが去来したに違いな
いと思います。

一件落着したあと、登波はこのことを亀松に知らせに常陸に旅立ちます。しか
し、亀松も親も昨年死んだということを知らされるのです。その後、登波は亀松
と最初に旅した日光、善光寺を参詣して故郷に帰ります。

やり始めた以上は、最後まで、碑文をアップしておきますね。

「余、すなわち因って郡を巡りて、烈婦を引見す。烈婦、時に59歳。身体健全に
して、容貌、いまだ衰えず。それをしてその復讐始末を語らしむるに、感慨悲わ
ん、声涙ともに下る。余、その志を悲しみ、またそのことの久しくしてあるいは
ビン滅せんことをおそる。ここにおいて碑を建てて、文をロクし、その跡をき
し、その烈を表し、これに重ぬるに銘をもってす。銘にいわく。

混々たる原泉、海に朝宗す。洋々たる大魚、竜門に竜となる。いなるかな烈婦、しんかんこれ通ず。身いやしといえども、もんりよ、いさおを表す。(だいたいの訳。
清い泉の流れは大河となって、海に注ぎ、魚が竜になるように、登波のことは、お上にまで達した。すばらしい登波よ。登波の徳は藩主にまで届いた。身分はたとえ、卑しくとも、登波のことはいつまでも語り継がれるであろう)」ふー、以上で「登波の碑文」は全部です。

登波は夫幸吉のことはどう思っていたのだろう。登波のあとを追って旅立ち、その後、行方不明のままです。津和野で病死したという噂は登波も耳にしていたのです。

松陰がこの「討賊始末」を書いている時、松陰の友人松浦松洞という人が登波を訪ね、これほどの烈婦といわれている人が、夫の死所を探らず、そのままにしているということはどいうことか、と詰問したそうです。
すると登波は赤面したかどうか、すぐ津和野に旅立ちます。しかし、津和野で死んだのは紀伊の人で夫ではないことがわかり、ほどなく帰ってきます。この旅の途中に松陰のもとを訪ね、詳しく話したようです。

松陰がこの登波物語ともいうべき「討賊始末」を書いたのは安政4年。
松陰が刑死する2年前のことです。

                                 




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