虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

高野山 戸谷新右衛門

2007-07-08 | 一揆
「東洋民権百家伝」の最初に登場するのが、この人だ。
高野山は、江戸時代、2万3000石あったそうで、興山寺というところが年貢を徴収していたらしい。年貢は、ふつう、京枡という枡を使って計るのだが、高野山は、讃岐枡という京枡に比べると一升につき2匁も余計に計る枡を使っていた。
ちょっとした増税だが、百姓にはたまらない。

あの定率減税の廃止とかいうやつ、わけがわからないが、住民税にはほんとにびっくりした。大増税じゃないか。新聞も、何も知らせなかったではないか。まあ、これは置いておこう。

戸谷新右衛門は、この不正を高野山の役僧に抗議するが、相手にされず、江戸の寺社奉行に直訴する。享保4年。吉宗の時代だ。
新右衛門は、3年間、入獄したのち、享保七年、幕府は高野山の不正を認めるが、新右衛門の身柄は高野山に渡してしまう。高野山では、新右衛門を石駕詰めという生きたまま土中に埋める刑に処す。ざっと、こんな話。仏につかえる高野山がこんな刑を執行するとは・・・。

その後、新右衛門の旧宅だった竹薮を切り開いて田畑に開墾しようとしたとき、竹林に中に、竹の葉で蔽ったものあり、その竹の葉を取り除いてみると、中から石塔が出てきた。その石塔には、新右衛門の家代々の法名と、新右衛門の名が書いてあった。この墓は、新右衛門が江戸に直訴に行く前に自分で作ったものだそうだ。

村人たちのために身を犠牲にして直訴したのに、村では、新右衛門の徳をたたえることはできなかったようだ。それだけ、高野山の村人への監督が厳しかったのかもしれない。新右衛門の記録も抹消したらしい。

東洋民権百家伝を書いた小室信介は、明治16年にこの墓をはじめて見る。
「新右衛門氏の墳墓に詣でしに、ただ見る一基の苔石愁草茫々の中に立ち、碑面、雨のために蝕し、また一字を読むあたわず、水涸れ、花空しく香煙長く絶ゆるのありさまなり」

明治16年、小室信介の文などを契機として、地元でもやっと新右衛門を顕彰しようとする動きが出て、この民権百家伝でも「同郡向副村の大西徳氏を始めとして、有志の人々発起をなして、近日、新右衛門氏のために一大石碑を建設し、長く氏の功徳をしたひ、とこしなえに氏の英霊を弔慰するの挙をくわだてらるるにいたりしは、氏のため、村民のため、自由のため、民権のために、喜ぶべきことなりというべし」と結んでいるが、しかし、この一大石碑はついに完成しなかった。

戸谷新右衛門については、高野山霊宝館のホームページが詳しい。そこには、大西徳氏が書いた「戸谷新右衛門小伝」という根本史料も出ている。

中里介山に「高野の義人」という小説があるそうだが、それは、この戸谷新右衛門なのだろうか?まだ確認はできていない。

画像は新右衛門の墓。竹薮の中から出てきたという石塔だ。現在の橋本市にあるそうだ。