虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

生野代官所への一揆と尼心諒

2007-07-05 | 一揆
元文3年(1738)の生野銅山一揆については、「東洋民権百家伝」に詳しい。
12月にあったのだけど、前後2回あり、1回目は銀山鉱夫たちの一揆、2回目は、鉱夫たちの一揆を契機として、朝来郡、養父郡の百姓たちが、年貢の減免と窮民への夫食米を求めて代官所へ強訴したものだ。

代官は、小林孫四郎。これまたよく深い代官だったらしい。
銀山の鉱夫たちの一揆では、獄門2、死罪2、追放7.
百姓たちの一揆は、獄門5、死罪1、遠島8、追放9.

尼の心諒さんとは、遠島になった弥兵衛さんのお孫さん。

この弥兵衛さんは、「東洋民権百家伝」にある判決書によると、持ち高10石、年寄役。但馬国朝来郡東河庄野村。35歳、とある。廻状を回し、村々から人数を集めたことを罰せられた。
遠島先は、壱岐島。

「東洋民権百家伝」はここまでしか書いていないが、地元の「朝来志」という地誌には、弥兵衛さんの孫のことが書いてある。これは、林基「百姓一揆の伝統」に書いてあった。

「心諒、幼時、祖父、なお島にありと聞き、あい見んとほっす。長ずるに及び、思慕ますます切なり。ついに志を決し、梁瀬村桐葉庵に入り、尼となる。行旅に便するなり。年、21」

壱岐についたとき、祖父は79歳だったそうだ。遠島になって49年間。天明5年のとき。しかし、うれしかっただろうなあ。

祖父は、島で孫が来る夢を三回も見たそうだ。そして、島は蚕が多いので、それを防ぐ紙蓆を作って待っていたという。孫は祖父の世話をしたかったが、許されないので、福岡の寺に住み、毎月1度は必ず島にいった。舟底にひそみ、その上に荷物をのせるというたいへんな船旅だった。3年後、天明8年祖父は死に、孫は、祖父の遺骨を持って故郷に帰る。

「後、水月庵ヲソノ郷里ニ創メ之ニ居、天保14年、病デ寂ス。年79」と、「朝来志」にある。
なんと、じいさん孝行な娘ではないか。

この水月庵にきっと祖父の供養碑も建てただろうと思うけど、朝来郡に「水月庵」は見つからない。この心諒という尼さんの寺はどこだろうか?「義民年表」には、この弥兵衛の供養塔は、和田山町野村、とあるきりで、寺の名もない。ただ、野村とあるから、ここが弥兵衛さんの故郷であることはまちがいない。水月庵はなくなったのだろう。

朝来郡のホームページで尼心諒を検索したけど、なにもなかった。ただ、ミュージカル「尼心諒」というのが一件だけあった。

画像は銀山湖。




松波勘十郎 水戸宝永一揆

2007-07-05 | 一揆
松波勘十郎は前からちょっと興味があった。浪人者であちこちの藩の財政改革請負業みたいなことをしていたようだ。

水戸藩の財政改革に起用されるが、百姓一揆にあい、牢死。特に、運河を作って、江戸と東北の物流をよくし、通行税をとる大工事を計画したが、失敗。
画像は、今に残る勘十郎堀。

最近、林基「勘十郎捜索」という本が出版されたそうだが(ネットで見た)、その値段にびっくり。7000円以上する。これで上下2冊あるのだから、買う人なんかいないだろう。林基といえば、百姓一揆の学者だったはずだ。みんな金に困っている時代、なんで、こんな法外な値段をつけるのか、不思議でならん。

これは、水戸黄門が死んで、その次の代の殿様のときだ。水戸藩が貧乏になったのも、黄門様が修史事業をしたり、そのつけが回ってきたかららしい。

この一揆については、「民衆運動の思想」(岩波書店)に「宝永水府太平記」の史料が収録してある。

「宝永3年、9月17日、清水仁右衛門(この人も浪人で財政改革者)取り持ちにて、松並勘十郎こと、御客分として、2百人扶持にてお抱え、その後、倅勝右衛門3百石、弟仙衛門2百石、御近習役あい勤め候なり。」

「勘十、その後、御奉行上座となり、御紋付着用し、倅勝右衛門、御用人となり、これより、御格式、古法あい止み、御改革始まり、御国中、勘十ひとり、御用司となり、我意に任ずる」

郡手代75人を30人に、代官手代56人を14人に減らすなど人員削減、また、手代が村を回るときは、徒歩でいくなど、いろいろと古い習慣を変えたらしい。
年貢もあがり、いままで特別に安くしてあった土地にも普通に税をかえるようになり、金持ちの百姓には御用金を課す。山の木も切りだす。なんといっても大きな事業は運河の工事だが、工事にかりだされる百姓には一銭の労賃も払わない。しかも、その工事がうまくいっていないのに、上には完成したとつくろう。

百姓たちは、江戸の藩邸に訴えることになるが、この史料では、上吉田影村の藤衛門が頭領として登場。
藩役人から、改革は領内が豊かになり、百姓にとってもありがたいことではないか、と諭されるが、いちいちに、そうではない、実はこうなのだ、と反論する。この一揆の頭領はだれだ?と聞かれると、それは、「松並勘十郎と清水仁右衛門にござ候」と答える。改革のリーダーこそが一揆の原因だという。
藤衛門は、くりかえし、松並勘十郎と対決させてほしい、と願っている。たいしたやつだ。

松並勘十郎親子は牢死。
藤衛門の義民碑はない。この一揆では、百姓は罪に問われなかったようだ。だから、藤衛門も殺されなかったのだろう。ほんまやろか?他藩ならともかく、水戸藩では百姓一揆など存在がゆるせなかっただろうから、もしや、ひそかに・・・、てことはないだろうか?

と、思って、「近世義民年表」を見てみたら、やっぱり藤衛門は闇討ちにされたという伝承があるらしい。また、伝承では、8名が帰国せず、地蔵尊を建てたが、藩によって移転させられ、また地蔵尊は打ち首になったともいう。その首切地蔵というのが、今もどこかにあるらしいが、おそらく慰霊するものはだれもいず、知られないまま放置されているにちがいない。