小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

涙を肥やしに生きていこう!

2011-03-15 07:20:24 | 暮らしのジャーナル

地震・津波・放射能・眠れない夜・これからを考える。

 ニューヨーク滞在47年後、日本に帰国し、NYから荷物がついて、まるで津波の去ったあとさながらの整理中,地震が起きた。スポーツ一切だめ人間で迅速に動けても周りに誰もいない時、ストレスは絶大になる。すぐ外に飛び出した。谷中の下町には電線が路地につながり、視界に入るだけでも数えきれないほどの数があった。それも下町情緒の一つになっているのだが・・・ちょっと怖い。

 電気が発明され、電線が出来てから有名だった江戸の誇り、諏訪神社の山車も電線のため動けなくなり、廃止になったという。
 家の前の電線がブランコのように動いた。本当に言葉を失う怖い天災であった。津波ですべてを失った人が「すべてを失いましたが命だけたすかりました。
これからはどんな困難があってもやれそうな気がします」と。ニューヨークから「日本人は偉い!どうしてこのような時、精神的なことが言えるのだろうか」とメールがとどく。 

 日本人は戦争中、一億総攻撃と言われてもおとなしく従った。そして原爆、一億の悲しみが原動力となり夢中で働き、明日に向かって目覚ましい復興を遂げた。1964年、オリンピック開催。日本で戦後初めてツーリズムが解放された時、私は世界一周の切符を抱え日本を出発し、半生をニューヨークで暮らした。今年から日本に住むことに決め帰国し、引っ越し荷物整理中に大惨事が起きた。

 ニューヨークでのもろもろの経験を顧みながら、今の惨事に巻き込まれていたら私はどうするか考えてみた。

 今頃ニューヨークに来てカルチャーショックを受ける人はいないほど豊かになった日本。当時私が受けたカルチャーショックは私のエネルギーとなり、全身を耳、眼として暮らしてきた。次第に日本が豊かになって日本がアメリカのニュースになるたびに、感動し、日本人としてアメリカ人の尊敬を受け、日本を誇りに出来た日々を私は忘れはしない。

 今朝の読売新聞の編集手帳に ”涙を燃料にして毎日を生きる”と書いてあった。この言葉には実感がある。力がある。皆で心にとめていこう。

  

 参考記事:
www.ny-apple.com タイトル中のニューヨークジャーナル9月14日、2001年、「あ、摩天楼が!」と1年後の2002年1月に書いた「忘れえぬ日」、6年後の2007年9月20日に書いた「グランドゼロ」を参考にご覧いらだけましたら幸いです。