観・環・感

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赤間神宮と平家滅亡

2016年02月20日 | 日記

赤間神宮



1185年の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の遺体は現場付近では発見できなかった。
しかし、1191年、壇ノ浦を望むこの赤間関(下関)に、時の後鳥羽天皇の命により阿弥陀寺に御影堂が建立され、建礼門院ゆかりの尼を奉仕させた。
以後、勅願寺として崇敬を受ける。明治の神仏分離により阿弥陀寺は廃され、神社となって「天皇社」と改称。1875年に赤間宮に改称、1949年には
赤間神宮に改称。社殿は、第2次大戦により消失し、現在の社殿は、1965年竣工のものである。


平家一門の墓(七盛塚) 壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓(供養塔)。14名のの供養塔が並び、名前に「盛」字の付く者が多いことから「七盛塚」とも称する。


墓の横にある芳一堂
小泉八雲の『怪談』で有名な琵琶法師の「耳なし芳一」を祀ったお堂


安徳天皇阿弥陀寺陵

安徳天皇は、母が平清盛の娘・徳子(建礼門院)であったため、木曽義仲の攻撃により都を追われると、平家一門と一緒に都落ちすることに。
ここ下関の壇ノ浦の戦いで初めは優勢であった平氏も、潮の流れが変わると次第に劣勢になり、敗北が決定的となると安徳天皇の祖母である二位尼(平清盛の妻)が、
安徳天皇を抱きかかえ入水。

『 平家物語の中での最高の涙のシー』」
“安徳天皇は、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられると、「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」と問いかける。
二位尼は涙をおさえて「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしい
ところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」と言い聞かせる。安徳天皇は小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遙拝し、続けて西を向いて
念仏を唱え、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じた。”
安徳天皇は、天皇歴代最年少の満6歳4か月で崩御したのである。私の孫の一人も今、ちょうど満6歳4か月。
ところで、鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」では安徳天皇を抱いて入水したのは祖母ではなく、按察使局伊勢とされている。
安徳天皇の母の建礼門院(平徳子)も入水するが、熊手に髪をかけられて引き上げられた。その後、京へ送還されて出家し、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。
「驕る平家は久しからず」とはいえ、悲しい話である。
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