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観・環・感

野鳥観察や旅行、映画などの趣味と日常生活や世の中の状況について、
感じる事を書いています。

噴水と雨

2015年12月01日 | 旅・風景・グルメ
11月25日26日とミステリーバスツアーに行ってきた。最近、旅行のブログをアップしていないが、
それは、私は、雨が好きでないので、カメラを持って行かないからだ。この秋、特に期待していたツアーが
台風で中止になってからも回連続で雨だった。
今回のツアーも2日間とも天気予報では雨の確率が強かったが、カメラは持って行った。
カニ食べ放題、ビール飲み放題、デザイナーズホテル宿泊の謳い文句に惹かれたのだ。ミステリーツアーだから
ツアー会社のパンフレットには、行き先も宿泊先も書いてない。ヒントは、瀬戸大橋を通るということだけ。
カニ食べ放題だから日本海側、瀬戸大橋を通るから鳥取県と思ったがそうではなかった。最初の観光地は岩国
ここもよく行く場所だが、雨の確率が高い。


錦帯橋






錦帯橋を渡った先の吉香公園の噴水
吉香公園は、旧岩国藩主吉川家の居館跡で1880年から1968年まで旧制岩国中学校、山口県立岩国高等学校用地
だった場所。高校の移転に伴い公園に整備された。

雨が降ってその上寒い。噴水は似合わない。




天竜寺 その2(無窓国師)

2015年08月11日 | 旅・風景・グルメ
天竜寺の創建を足利尊氏、直義兄弟に勧めたのが無窓疎石。
無窓疎石は、存命中に国師号を後醍醐天皇(夢窓国師)、光明天皇(正覚国師)、光厳上皇(心宗国師)から賜与され、亡くなってからも4人の天皇
から国師号(普済国師、玄猷国師、仏統国師、大円国師)を賜与されていることからも非常に優れた人物であったことが分かる。
無窓国師は、天竜寺の創建より前にも足利尊氏兄弟に元弘の乱以来の戦没者の霊を弔う趣旨で、全国に安国寺、利生の建立を勧めている。
(この建設は、1337年から始められ、1345年に北朝に奏請し、正式にこの寺塔名を決定したもののである。)
無窓国師は、後醍醐天皇を弔うためと足利兄弟に天龍寺の創建を勧めたが、当時室町幕府は、南北朝の戦乱のための費用と部下への恩賞を気前
よく与えたために、財政が逼迫していた。尊氏は、天龍寺造営のために備後国、日向国、阿波国、山城国などの諸国を寄進したが、資金不足で建設が
進まない。そこで、元との貿易をすることで、寺の建設資金に充てることにした。これが俗にいう天龍寺船。
無窓国師に最初に国師号を賜与したのは、後醍醐天皇であるが、夢窓は足利家とも縁があり、足利家の内紛である観応の擾乱では調停も行っている。


建物は、何度も火災に遭っているが、庭園は今もなお天龍寺創建当時の面影を残している。
無窓国師は、世界遺産登録の西芳寺とこの天龍寺の他にも多くの作庭をしている。


方丈の中にある龍の襖絵。アクリル板で覆われているので、外の庭園と鑑賞している人々が写り込んでいる。
これが面白い。


曹源池と呼ばれる池を中心として、手前に白砂を敷き緩やかな池汀としている。この池は何度か改修されているらしい。
奥には立石を配し荒磯や石組を組むなど、日本古来の州浜景観と大陸由来の山水景観が見事に調和している。


背後の山並みをうまく取り込んでいる。


美しい庭が見られるのも日々の手入れのおかげだ。

天竜寺 その1

2015年08月02日 | 旅・風景・グルメ
天竜寺は、京都五山の第一位とされている。ところで、「五山」とは昔歴史の時間に習い、覚えていたような気もするが、
ネットであらためて検索すると「五山制度はインドの五精舎にならった中国・南宋の五山十刹の制をさらにならったもの。
鎌倉時代、北条氏が各禅刹の寺格を決め、官が任命した住寺を順次上位の寺へと昇任させる南宋の制度を取り入れた事に由来。
鎌倉幕府滅亡後の室町初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められた。その後、幾度かの改定を経て、1386年3代将軍の
足利義満により、五山の上に南禅寺がおかれ、相国寺を創建し、相国寺を第一位、天龍寺を第二位とする順位変更が行われた。
しかし、義満没後の1410年に元に戻された。

南禅寺(京都)は別格で「五山之上」とされている。
第一.建長寺(鎌倉)・天龍寺(京都)
第二.円覚寺(鎌倉)・相国寺(京都)
第三.寿福寺(鎌倉)・建仁寺(京都)
第四.浄智寺(鎌倉)・東福寺(京都)
第五.浄妙寺(鎌倉)・万寿寺(京都)

ちなみに、2006年の阪大の試験に
禅宗は鎌倉・室町時代に幕府の保護をうけて大いに発展した。主な禅宗寺院および禅僧の名をそれぞれ3つ以上挙げながら、
鎌倉・室町幕府と禅宗との関係について述べなさい。(200字程度)

2013年の早大の試験に
「室町幕府はとくに臨済宗を手厚く保護して五山の制度を整え、相国寺にこれら寺院の僧侶を管理する[ A ]の職をおいた。」
(ア十刹 イ 僧録 ウ 諸山 エ 官寺 オ 法主)

天竜寺のホームページによると天竜寺は、大きなものだけで延文元年(1356)、貞治6年(1367)、応安6年(1373)、康暦2年(1380)、
文安2年(1445)、応仁2年(1468)、文化12年(1815)、元治元年(1864)の8回も火災に遭っている。
普通、京都の人がよく言うあの戦争で焼けたという戦争は、太平洋戦争ではなく、室町時代の1467年から1477年まで続いた内乱
「応仁の乱」だ。(京都は、太平洋戦争時、米軍の原爆投下の候補地になっていたが、運良く原爆の投下もなく、一部爆弾が
落ちた地域もあったが、他の都市のような大規模な空襲は幸いなかった。)
特に文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の
朱印を受けて順調に復興するが、文化年間に被災、この再建途中の元治元年、蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために
再び伽藍は焼失している。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年(1876)には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし、
翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の
境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、30ヘクタール(3万坪)を残すこととなっている。
これだけ波乱に満ちた寺も少ないのではないか。


日曜祭日でないので、加山又造の「雲龍図」は拝観できない。


庭園は、見られるということで行ってみた。
外国人と修学旅行の生徒が多い。


最近の修学旅行はタクシーを利用しているようだ。(4人のメンバーを決めるのが担任の悩みだと聞いた。)


多宝殿
この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地である。現在の建物は、昭和9年当時の管長であった関精拙老師が
完成させたもの。後醍醐天皇の吉野行宮時代(南北朝時代)の紫宸殿の様式と伝えられる。中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の
尊牌が祀られている。
天竜寺は、後醍醐天皇の冥福を祈念して建立された。これは、政敵であった先帝の菩提を弔うならば、天下は何とか鎮まるだろうと
勧められたことに対し、足利尊氏と弟の直義もすぐその気になり、亀山殿の跡地に天竜寺を造営したとされている。これは、菅原道真を
遷し死に追いやったことにより、それに関わった関係者が次々と死んだように、当時は怨霊に対する恐れがあったことが背景にあるとされている。

正面に寺号「天龍資聖禅寺」に用いられた「資聖」と書かれた扁額が架かっていた。この寺の名前のいきさつも面白い。
当初の寺名は、「霊亀山暦応資聖禅寺」であった。ところが、比叡山延暦寺が「年号を寺名につけるのは延暦寺だけに許された特権」と抗議
したことから、年号の暦応を取り「霊亀山天龍資聖禅寺」と変更したらしい。
さらには、光厳上皇を迎えて天龍寺の落慶法要の儀式を行おうとしたことろ、延暦寺が興福寺や東大寺にも呼び掛けて強訴したため、光厳上皇
の出席はかなわなかった。これは、古くからの寺社が幕府と結んできた禅宗勢力を快く思わず、激しく対立していたからである。



水車のある村

2015年07月22日 | 旅・風景・グルメ

ここは、一度来てみたかった場所だ。
しかし、本当のところは、バスツアー初日の2番目の目的地であるわさび農場の見学途中に水車を見つけ、あっと気がついたのである。その場所が、
自分が参加しているツアーの目的地の一つである「有限会社大王」が運営しているわさび農場の中にあるとは知らなかった。(実際、観光時間に
制限があり、急いでいたせいで、もう少しのところで通り過ぎるところだった。)
ここは、黒澤明監督の映画「夢」の中の第8話「水車のある村」のロケ地として使われた場所だ。しかし、映画で覚えているのは水車とその周りの
風景だけだ。うろ覚えだがあらすじまでは覚えているのは、第1話の「日照り雨」と第2話の「桃畑」だけだ。
「水車のある村」で老人を演じたのが笠智衆だったのは、はっきり覚えているが、主人公役が寺尾聰だったことさえ忘れている。当時、感動した映画
なのに、実際のところほとんど覚えていないのに正直驚いている。なにしろ、25年も前の映画だからと自分を慰めている。




日本の原風景ともいえるこの美しい風景、実際は、わさび農場が造られる以前は荒れ地だったそうだ。大王わさび農場の創業者である深澤勇市氏が
この地に安曇野の豊富な湧水を利用したわさび畑の開拓を思いついたのは、大正初期のことらしい。このことも、このブログを書くときに検索して
初めて知ったことである。

白馬五竜高山植物園 その2

2015年07月20日 | 旅・風景・グルメ

往路はリフトを使ったが、帰りは歩いて植物園の中を巡りながらゴンドラ乗り場に向かうことにした。東の方角に見える山々の名前は分からない。




また、前方が霧(雲)もせいで見えなくなった。
旅行の行程ではここを観光した後に上高地に行く予定だったが、台風が来てるので中止。


ニッコウキスゲもこんなに濡れている。
今回のバス旅行は、先月末に発売されたG3Xを使って撮影したが、高山植物園なのに花の写真はこれだけ。
いろんな高山植物が咲いていたが、どれも全部ピントがずれていた。
ファインダーを外してきたせいだろうか。やはり、腕のせいだろうか。
しかし、この日ホテルを出発する前から小雨がずっと降っていたけど、綺麗な雲海を見られただけでもラッキー思わなくては。
この後は一路バスで徳島へ。 午後6時頃自宅に着くことが出来た。 






白馬五竜高山植物園その1

2015年07月18日 | 旅・風景・グルメ
台風11号がやって来てる時に信州に旅してた。初日の15日のお天気は良かったが、翌16日は、朝から小雨が降っていた。天気予報によると、
この日の夜半に四国に上陸するらしい。2日目の朝、バスツアー会社の本社から「この日の行程は、朝一番に予定されてた「白馬五竜高山植物園」
だけ行って、後は中止。」という指示が添乗員に伝えられた。2日目のメインは上高地散策だった。
この植物園の売りは、人の手で育てられた高山植物よりも周りの山々の大パノラマの風景だ。しかし、この天気で、標高1500mの植物園に出掛けても、
その風景が見られるのかどうか、乗客の期待は薄かった。


植物園は、6月から10月まで開園していて、他の時期はスキー場として営業している。


アルプス平駅でゴンドラを降りて、リフト乗り場に向かう道中
目の前さえあまり見えない。
小雨模様のこのような天気の日のために、いつも使っている一眼レフではなく、コンパクトデジカメのG3Xを買ったのだが、多少雨に強くても霧の中では
どうしようもない。


リフトから西の方を恨めしそうに眺めていると、突然目の前の霧が消えていった。
写真の中ほどの先が尖った山々が白馬三山(しろうまさんざん)と呼ばれている鑓ヶ岳(やりがだけ)、杓子岳(しゃくしだけ)、白馬岳(しろうまだけ)だ。


屋根には雪がまだ残っている。


右端が乗鞍岳?

清涼寺

2015年06月18日 | 旅・風景・グルメ

清涼寺仁王門
夏向きの名前のこの清涼寺は、今まで訪れたことがないだけでなく、名前も全く知らなかったお寺だ。
清涼寺の「清涼」は、「しょうりょう」と読み、仏語で浄土や悟りなどの「絶対の境地」を指す言葉 これも知らなかった。


この看板を見て、初めて清涼寺が由緒ある寺でことを知ると同時に、今から1000年余り前に生まれた源氏物語に世界に思いを巡らせた。
ところで、光源氏」のモデルの一人とされる左大臣であった「源融」の美男子ぶりや境遇は、源融の没後約100年余りを経て世に出た源氏物語の中の
光源氏と同じようであったらしい。
看板にある「清霞観」は、源融が建てた山荘。
清涼寺(地元では、「釈迦堂」と呼ばれている)は、987年に中国から帰国した然(ちょうねん)が計画し、弟子の盛算(じょうさん)が開山した。


本堂


この象は、浄土宗元祖の「法然」がこの寺の釈迦堂で7日間籠もったことにちなむもの
右の塔は、多宝塔


弁天堂

余談だが、「清涼寺」の清涼は、「しょうりょう」と読み、仏語で浄土や悟りなどの「絶対の境地」を指す言葉

大徳寺

2015年06月16日 | 旅・風景・グルメ

禅宗の一派で栄西を祖とする臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺の山内図
ところで、大本山、総本山と称する寺が一番多いのは、真言宗の18で、臨済宗はそれに次いで14である。
大徳寺は、倉時代末期の1315年に大燈国師宗峰妙超禅師が開創。応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。豊臣秀吉が織田信長の葬儀を
営み、信長の菩提を弔うために総見院を建立、併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた寺である。
江戸時代の初め幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けた。しかし、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあり、
寺運は栄え今日に至っている。
大徳寺は別院2、塔頭22を有する寺であるが、そのほとんどの塔頭では一般参詣を認めていない。常時拝観可能な塔頭は龍源院・瑞峰院・大仙院・
高桐院の4か院である。


常時拝観可能な大仙院(バスツアーの時間の関係で拝観する時間はなかった。)


大徳寺山門(拝観できない)
この山門の2階部分は、千利休によって増築された。そこに雪駄履きの利休の像を安置したことから、その門を潜る立場の秀吉の怒りをかい、
利休の切腹の一因となったと言う説は有名。


芳春院


三玄院
右の門柱に三玄院、、左の門柱に拝観謝絶の文字が
三玄院は、1589年に浅野幸長(長政の長男)、石田光成、森忠政(蘭丸の弟)によって春屋宗園を開祖として創建。小堀遠州、古田織部、長谷川等伯もここで修行している。
石田三成、森忠政、古田織部等の墓所で有名。



るり渓 その3

2015年06月01日 | 旅・風景・グルメ



水晶簾




双龍淵

るり渓は、環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。
ネット検索すると奇岩、巨石が鳴爆、双龍淵などのビュースポットを形成し、渓流の音は機織り、汽車、琴、鼓、風のような
音に聞こえてくる」。また、野鳥のさえずりや虫の声と重なり合って、さらにオリジナルな音風景が作り出されている。
約4キロに渡って演出される渓流と野鳥、虫の和音は、壮大な名楽器の音色とも受け取れとれる。」と書かれていた。
この文章を先に読んでいたらもう少し感動したかも知れない。
本来ならバスは、遊歩道の入口のほうで乗客を降ろして、出口のほうの駐車場で待ってるはずだった。しかし、運転手さんが
道を誤り行き過ぎたため、出口のほうの駐車場で下ろされたので、入り口付近にあるるり渓一番の見所と言われている「鳴爆」が
見られなかったのは残念だった。

ただ、るり渓は自然の荒々しさとか見る者を圧倒するような存在感を全く感じさせず、あたかも日本庭園であるかのように自然で
巧妙にり込まれた作品だと感じた。

るり渓 その2

2015年05月31日 | 旅・風景・グルメ





このような水の色を見て、明治38年当時の京都府船井郡の三宅郡長が「瑠璃渓」と命名したのか
それ以前は平らな河床が続くことから「滑(なめら)」、「滑石(なめら)」滑渓(なめら)、と呼ばれていたらしい。