ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

悲しみを想いながら、庭の水仙を、

2015-03-23 21:18:25 | 日記
『船越保武 彫刻展』―――まなざしの向こうに――――
へ、行って来ました。
2回目、いや、同企画展でいえば3回目です。
昨年11月 岩手県立美術館で、そして郡山市立美術館へは、2回足を運びました。

いくら船越保武の作品とエッセーが好きだからと言って、同じ企画展を3回というのは、
度を越すようですが、何かに呼ばれるように行って来たのです。

新しい発見に驚いたり、
今まで好きだった作品が、どこか色あせて見えてきたり、
「ダミアン神父」像と視線が合う場所に、暫し佇んで耳を澄ませて見たり………。
ゆったり時間が流れ、気持も凪いでいました。
美術館の庭を一人散歩し、春の空を見上げ、バスに乗って帰って来たのです。

と、我が家の庭に水仙が咲いていました。
半月ほど前から咲いていたのに、あまり気にかけもしなかったのです。
“あぁ、咲いたね”
そんな、接し方でした。

でも、水仙が、私を見たのです。
それは、美術館で見て来たパステル画『一馬と水仙』の中の水仙が私の内に残存していて、
庭の水仙と呼応したのかもしれません。

船越保武氏は、生まれて八カ月の長男を肺炎で失った時、街はずれの従兄弟の家へ走りました。
従兄弟の庭には、花が、いつも いっぱい咲いていたからです。
“花を下さい、花をください”と。
“赤ん坊が死にました。花を下さい。なるべくたくさん下さい”
と。

船越保武のエッセーは、続きます。
≪…………
従兄弟はたくさん咲いている黄色い水仙を、ほとんどみんな伐ってくれた。
その花を、自転車の前と後ろにつけて、いそいで帰った。
花を、いっぱいに棺の中にうめた。
黄色い花いちめんの中に、一馬の顔だけが見えた。
花の中から、小さな顔と、合掌した小さな手だけが見えた。
「こんなにきれいなのに。こんなにきれいなのに」
と妻は水仙の花を一輪ずつ、ていねいに一馬のまわりに置きながら、同じことを
繰り返していた。
……………………中略………………
たった八カ月しか生きることの出来なかった幼児との訣別だから、黄色い水仙の花だけ
しか見えて来ないのかと、私は自分の鈍感さにあきれることがある。
ながい間、私の中には、いちめんの黄色い花が充ちていた。
それでも眼を閉じて、じっとしていると、黄色の花の中に埋もれた幼い顔が
かすかに見えて来る。
それはただ美しく、笑いも泣きもしない。
静かな顔で、眼をやさしく閉じている。
……………………中略………………
花に埋まった幼児を描いた、あの時のパステル画を出して見ると、郷里の春の、
うららかな空気まで、よみがえって来る。
三十年を過ぎてもパステルの色は、褪せてはいない。
…………≫
(エッセー・水仙の花 より)

私は、美しく静謐な船越保武氏の悲しみに思いを馳せながら、庭の水仙を しばし眺めました。
≪うららかな≫春の夕暮れです。
コメント
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