仙台博物館で開かれている『奈良 薬師寺 未来への祈り』へ、行って来ました。
「吉祥天女像」と「聖観世音菩薩立像」に お会いしてきたのです。
孫のKに良く似た地蔵菩薩様が いらっしゃった、などと思ったのは
「ばーば」の慾目というものでしょう、きっと。
国宝「聖観世音菩薩立像」
像の前に備えられていた長椅子に、掛けては立ち上がり、像の周りをぐるっと回り、
そしてまた眺め、その微笑に触れさせていただきました。
1200年もの間、人々の嘆きの声を聴いて下さって、
それでも、すっくと優美に立っていらっしゃいました。
美しい お姿です。
私などは、友人の誰かから困り事や悩みなどを相談されたら、
自分まで具合が悪くなりそうで、人さまの お役になど立てはしません。
利害関係でも生じたものなら、顔つきさえ険悪になってくるでしょう。
「吉祥天女像」
ふくよかで、麻布著色、これがまた美しく ため息が。
薬師寺の東塔・西塔、塔の心柱、水煙などについて、説明というか短い説話を
なさって下さっている お坊さんのお話に感服しました。
誰もが、よく分かる言葉で、かつユーモアと、ジョークを交えた語り口は、
「さすがー」だったのです。
分かりやすい言葉で人に語ると言うことは、難しいことです。
語る人自身、その言葉を体得していらっしゃるから出来得ることだと思います。
自身の不明な部分を、難しいことばや、カタカナ用語で ごま化しがちな私などは、
実に恥じ入るばかりでありました。
薬師寺のお坊さん方は、今でも津波被害に遭った三陸沿岸を訪れ、
供養なさっていらっしゃるとのこと。
そして家族や大切な人を失った方たちの声や、つぶやきを聴いて下さっていることを
知りました。
人に寄り添うとは、「聴く」ことなのだと、あらためて教えられました。
そして、語る時は、やさしい言葉で。
聖書にも、「味付けされたことば」(※)で語ることが薦められています。
私は、多聞天像に
「よく聞き、学ばなくてはいけないんですよね」
と、少しばかりの反省を込めて語りかけてみました。
そして、持国天像には、
「安保法案どう思われます?」
などと。
帰路の高速バスの車窓には、田んぼが青々と広がっていました。
東日本大震災復興のために企画された、『吉祥天女が舞い降りた!』展。
とても、ありがたい企画でした。
※『いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。
そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
(コロサイの信徒への手紙4章6節)
「吉祥天女像」と「聖観世音菩薩立像」に お会いしてきたのです。
孫のKに良く似た地蔵菩薩様が いらっしゃった、などと思ったのは
「ばーば」の慾目というものでしょう、きっと。
国宝「聖観世音菩薩立像」
像の前に備えられていた長椅子に、掛けては立ち上がり、像の周りをぐるっと回り、
そしてまた眺め、その微笑に触れさせていただきました。
1200年もの間、人々の嘆きの声を聴いて下さって、
それでも、すっくと優美に立っていらっしゃいました。
美しい お姿です。
私などは、友人の誰かから困り事や悩みなどを相談されたら、
自分まで具合が悪くなりそうで、人さまの お役になど立てはしません。
利害関係でも生じたものなら、顔つきさえ険悪になってくるでしょう。
「吉祥天女像」
ふくよかで、麻布著色、これがまた美しく ため息が。
薬師寺の東塔・西塔、塔の心柱、水煙などについて、説明というか短い説話を
なさって下さっている お坊さんのお話に感服しました。
誰もが、よく分かる言葉で、かつユーモアと、ジョークを交えた語り口は、
「さすがー」だったのです。
分かりやすい言葉で人に語ると言うことは、難しいことです。
語る人自身、その言葉を体得していらっしゃるから出来得ることだと思います。
自身の不明な部分を、難しいことばや、カタカナ用語で ごま化しがちな私などは、
実に恥じ入るばかりでありました。
薬師寺のお坊さん方は、今でも津波被害に遭った三陸沿岸を訪れ、
供養なさっていらっしゃるとのこと。
そして家族や大切な人を失った方たちの声や、つぶやきを聴いて下さっていることを
知りました。
人に寄り添うとは、「聴く」ことなのだと、あらためて教えられました。
そして、語る時は、やさしい言葉で。
聖書にも、「味付けされたことば」(※)で語ることが薦められています。
私は、多聞天像に
「よく聞き、学ばなくてはいけないんですよね」
と、少しばかりの反省を込めて語りかけてみました。
そして、持国天像には、
「安保法案どう思われます?」
などと。
帰路の高速バスの車窓には、田んぼが青々と広がっていました。
東日本大震災復興のために企画された、『吉祥天女が舞い降りた!』展。
とても、ありがたい企画でした。
※『いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。
そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
(コロサイの信徒への手紙4章6節)