ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

野の草でさえ。

2014-02-28 11:45:35 | 日記
誕生日がきました。
喜寿です。
先だって、地域の民生委員の方が、「敬老証書」と一緒に、祝金「金二万円也」を届けてくださいました。
還暦を迎えた時に、「もう、何歳だから」と、数えることはすまい、と心に決めていたので、76歳が77歳と、
一歳増えたからと言って どうってことはありません。

民話では、歳の神さまが、大晦日に配ってあるくのが「歳」とのこと、
ありがたく頂戴するだけのことです。

喜寿のお祝いの色は還暦と同じ紫とのこと。
紫色は好きですが、「ちゃんちゃんこ」は、ちょっと遠慮したく思います。

77年間生かしていただきました。
父よりも母よりも長く生きました。
神さまに感謝し、家族や周囲の方たちにも、
『ありがとうございます』と。

渡辺和子(「置かれた場所で咲きなさい」の著者)シスターのことばによれば、
〔今日が、私の一番若い日だそうです〕。

確かに、明日を生きることができ、「明日」という時点で「今日」を振り返れば、
「今日」が出発点・一番若い日です。
さあ、若い日の今日。
まずは洗濯から。

聖句をひとつ。
これからも、この「み言葉」を糧として、日々を大切に生きたいと思っています。

     【だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
      また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
      命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

      空の鳥を良く見なさい。種も蒔かず刈り入れもせず、倉に納めもしない。
      だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。
      あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
      あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
      寿命をわずかでも延ばすことができようか。

      なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、
      注意して見なさい。
      働きもせず、紡ぎもしない。
      しかし、言っておく。
      栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
      今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
      神はこのように装って下さる。
      まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。】
                      〔マタイによる福音書6章25節~28節〕


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何万人もの「日本男児」が、

2014-02-27 07:40:32 | 日記
『日本兵とみられる ほぼ一体がそろった遺骨が見つかった。』
と報じられました。
沖縄の旧日本軍の陣地周辺の浅い壕跡で発見されたとのことです。
表土から約40センチ、仰向けで、手を胸に置いた形で埋まっていたとのこと。
左腹には、砲弾の破片を思わせる 鉄の塊があったとも報じられました。

「安らかに」と祈るには悲しすぎます。
「長い間ご苦労さまでした」
私は、そう思って掌(て)を合わせました。

「地上に出してあげられて良かった」
「若い兵だと思う。活動を続けてきたかいがあった」
と話したのは、修養団 沖縄がじまる会の会長さんでした。
遺骨は慰霊祭を行った後、収骨した20柱分と共に、県平和祈念財団の 
戦没者遺骨収集情報センターに託されたそうです。

私は硫黄島玉砕のことを思い出しました。
昭和20年2月、太平洋に浮かぶ小さな火山島硫黄島で、アメリカ海兵隊60,000人、
日本軍守備隊21,000人が激突しました。

戦いは1ヶ月以上続き、米軍は太平洋戦争以来最悪の、28,000人の死傷者を出しました。
補給もないまま戦った日本軍は、持久戦の果てに悲壮な最期を遂げ、
硫黄島は玉砕の島となったのです。
地下壕に充満した飢えと乾き。
日本軍2万1000人のうち、生還したのはわずか1,000人だったと伝えられています。

硫黄島に急遽送りこまれた兵士たちの多くは、戦争にあまり経験のない年配者と少年兵だったそうです。
彼らは、「戦闘心得」と共に、捕虜になることさえ禁じられ、孤島で逃げ場のない戦いを強いられました。

平成6年度までに祖国に帰った遺骨は約8600柱。
未だに数多くの遺骨が取り残されているのです。

攻撃を前にして、白襷(だすき)をした栗林と市丸の両司令官は、兵士達に、
「日本が戦に敗れたりと言えども、いつの日か国民が諸君等の勲功を讃え、
諸君等の霊に涙し黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう。
安んじて国に殉ずるべし。予は常に諸子の先頭にあり!」
と述べ、日本刀を手に自らが先頭を進み突撃して行ったと伝えられています。

かつて、愛国少女だった私は、今でもこの『檄』に涙してしまうのです。
でも、靖国神社への参拝はしたくありません。
若者を戦場で死なせたくないから、憲法9条を守りたいと思っています。

安倍首相は、金メダルの羽生選手に
《たくさんの日本人が羽生選手の演技を見て胸が熱くなる思いだった。
氷に一礼するたたずまい、さすが日本男児だ》
と祝福の電話をしました。

この言葉に、私は背筋が寒くなる思いでした。
何万人もの「日本男児」が、先の戦争で、そのいのちを奪われたことを想起させられたからです。
                                     〈ゴマメのばーば〉
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きめ細かな保障処置を。

2014-02-26 07:39:43 | 日記
《避難指示は、憲法が保障する居住の自由を阻む命令。
田植えを再開し、家を補修したい人の人生の再建を遅らせる権利は(政府には)ない》

上記の言葉は、福島県田村市都路地区に設定されている避難指示を、4月1日に解除するために、
原子力災害現地対策本部の赤羽一嘉・本部長が述べた言葉です。
(都路地区に戻ることへの強要ではないとのことです)

「憲法22条」居住権からの引用。
間違いではありません。
でも、この時点での憲法引用に、私は違和感を覚えました。

原発から20キロ圏内の旧警戒区域へ、初めて住民の帰還が可能になることは嬉しいことです。
しかし、職業や世代間によっては
「やっと帰れる」
「まだ放射線が心配」
と意見が分かれていると聞いています。

放射線量への不安や、住宅の荒廃など、生活基盤が失われてしまっている現状では、
生活再建といっても容易ではないことでしょう。
3年間 避難させられた方々は、それぞれが 明日の見えないなかで、
生活せざるを得ない状況に置かれていたわけです。

今、戻ることが可能と言われても、
町のコミュニティーは分断され、
農林業は風評被害に、
豊かな自然を育む山林の除染は手つかず、
という状況では、「戻る」という決断も容易に下せないのではないでしょうか。

除染後も1ミリシーベルトの達成は 無理とのことですから、高齢者は帰還しても、
若い親子世代は避難先にとどまるとみられるそうです。
そして、月10万円の精神的賠償は避難指示解除後1年で打ち切られるとのこと。
『解除が復興のスタートライン』
ということであれば、それぞれの方達への補償を、いろいろな形で 十分にして欲しいと思います。

政府の方に申し上げたいのです。
3年前、憲法に保障されている居住権を奪われたのは、『避難者』だったのです。
今、避難区域を解除するにあたり、「憲法22条」を持ち出しての説得の仕方は、
それが強要でないにせよ、避難民ではない私からしても、違和感を抱かざるを得ないのです。

【「解除は復興のスタートライン」との言葉が空虚にならないよう、避難者を第一に考える政策を求める。】
と記していた記者の言葉に同感です。

罹災した人たちは、国の原子力発電という国策のなかで、 
憲法で規定された「居住権・生活権」を、すでに奪われた方達であることを、忘れないでください。
それぞれの被災者に、生活再建への、きめ細かな保障処置をして下さい。
                                 〈ゴマメのばーば〉
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『ダラカン』のことなど。自戒と共に。

2014-02-25 07:35:35 | 日記
『憲法解釈は内閣法制局も大きな役割を担うが、内閣法制局長官が決めることではなく、
内閣が責任を持って決めていく。内閣において、最終的な責任は私が負っており、
責任者は私であるということを明確にしなければならない。』
安倍首相、衆院予算委員会での発言です。

『1人で決めていくということではなく、政府の有識者懇談会の検討を受けて、
与党とも協議しながら最終的には閣議決定する方向になると思う。』
とのことですが、首をかしげてしまいます。
政府の有識者懇談会は、安倍首相の代弁者にしか思えませんし、
解釈で憲法の内容を変えるというのは、間違いでしょう。

元内閣法制局長官・阪田雅裕氏は、
憲法改正には国民投票が必要なことに触れ、
「政府が 解釈でやったら国民の出番もない」
と指摘し、
「そんなことで許されるなら立法府なんて要らない」
とも批判しました。
同感です。

選挙制度や、投票率の低さなど、いろいろあるにせよ、
私たちは自民党政権を選挙で許してしまいました。
臍(ほぞ)を噛む思いですが、これは現実です。

選挙の際、卑近の例をとってみても、
身近な利害関係による選択肢で国政選挙に臨んでいたような気がします。
1震災の時、いち早く駆けつけてきてくれた。
2崩れた道路の補修を、すぐに手配、修復してくれた。
3孫が、就職の際世話になった。等々。

これらの絆も、生きるためには大切であり 否定はできません。
でも、国政選挙という自覚が希薄だったような気がします。

何十年も前の経験です。
職場で、労働組合の大会(支部)があったとき、上部組織の役員に対する批判が
続出したことがありました。
その行為が、運動の指導者としては、ふさわしく無いと評される役員に対して、
『ダラカン』との蔑称を付して幹部に対する不満の溜飲を下げていたのでした。
『ダラカン』とは「だらしない幹部」の呼称です。

そうした会議の中で、とある年配者が、言った言葉を今でも覚えています。
『だらしのない幹部がいるということは、だらしのない個々の組合員がいるということ。
我々も反省すべきだ』と。
これは、きつい発言でした。
でも、正しい発言でした。

今、また この言葉が頭をよぎります。
「ダメな政治家がいるということは、ダメな選挙民がいるからだ」
と、自戒を込めて思い出しています。

でも、ダメ選挙民に甘んじてはいられません。
少し、古くなった〈はやりことば〉ですが、
「いまでしょう」。政治に もの言いを し続けるのは。

憲法12条、『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、
これを保持しなければならない』
『国民の不断の努力』
心に、しっかりとつなぎ止めて置きたいと思います。
                                    〈ゴマメのばーば〉

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『口は災いのもと』

2014-02-24 07:24:50 | 日記
『口は災いのもと』
子どもの頃、母によく言われました。
口達者だった私は、姉妹とのケンカであれ 友人とのケンカであれ、
逃げながら相手への悪口を言ったものです。

同じ年頃の友達より身体が小さかった私は、腕力での勝ち目は皆無だったので、
ケンカ相手への罵詈雑言が、より強力になっていったのです。
口喧嘩で 相手を泣かしてしまったり………と。

そうした私に、母がいつも教え、たしなめた言葉が、
『口は災いのもと』でした。
《口から出してしまった言葉は、もう引っ込めることができないの。
その言葉が相手をひどく傷つけようものなら、その傷の痛さは、自分にかえってきます。
言葉は慎みなさい》

【七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず】
から程遠い私は、母の教えを忘れこそしませんが、
いくつになっても自らの言葉を制することが出来ずにいます。

それにしても、
首相補佐官・衛藤晟一氏。
NHKの籾井勝人会長。
このお二人、すごいですね。
賞賛ではありません。驚くばかりの厚顔です。
一旦、口に出した言葉は、紙に書いた文字の様に 消しゴムで消えるわけはないでしょう。
『取り消した』のに、『何、もんく ある?』
あの態度、呆れて怒りたくなります。

ケネディ駐日米大使が、NHkの取材を拒否したとする報道について、衆院予算委で説明を求められた籾井氏は、事実関係の確認にさえ
『お答は差し控える』
との答弁、無礼です。
国会ですよ。

「個人的見解」や「思想」で、人を裁くことはできません。
でも、個人的見解を表明する『場』の見極めを知らない方は、
しかるべき要職には ふさわしくありません。

私。
NHKに、しっかりと受信料を払っています。
籾井氏を会長にいただくNHKには、受信料を払いたくありません。
                                     〈ゴマメのばーば〉

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