ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

《静けさも、やすらぎも失い》

2022-05-31 06:45:40 | 日記
今日も晴れのいいお天気でした。
朝、寝具類の洗濯をしました。
昼食の後、ベランダへ出て洗濯物に手を触れましたら、パリッ・カリッと、音が出そうな乾き具合。
暮らしの中で、長いこと付き合って来たこの感じ、いつでも満足感と安らぎを覚える感触です。
洗濯物をたたみ終え、べランダまで伸びている柿の、トロトロした緑の葉っぱに触れたりしながら青い空を眺めました。
体は疲れを覚えていても、満足感がじっくり広がってきて・・・
あぁ、5月も行くか、と。

《知床沖で観光船が沈没した事故で、海上保安庁などが30日も行方の分かっていない12人の集中捜索を行っています。
現場海域や国後島周辺の海域では29日から3日間の予定で集中捜索が始まりました。
30日は、海上保安庁の巡視船や漁船など22隻が捜索にあたっています。
特殊救難隊などが野付半島から根室までの範囲で、海岸を泳ぎながら捜索するということです。》(5/30 HTB北海道ニュース)

事故を起こした船体は来月1日に陸揚げされ、乗客の家族らに公開される予定とか。
家族の方々にとっては、行方不明の方が一刻も早く見つかることが切なる願いではないでしょうか。
早く見つかります様に。
五月の青空がこんなに美しく広がっていますのに、戦争があったり、思わぬ事故に遭遇して大切な人の命が奪われたり、・・・当事者の方々にとっては、何とも理不尽な思いに尽きることかと。

《ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。》
と聖書は伝えます。
そのヨブに思わぬ理不尽な災いが襲いかかります。
信仰あついヨブは、家族も全財産も失ってしまっても神を非難することなく、地にひれ伏して言うのです。
  《わたしは裸で母の胎を出た。
   裸でそこに還ろう。
   主は与え、主は奪う。
   主の御名はほめたたえられよ。》
         (ヨブ記1章21節)


しかし、ヨブ自らが皮膚病に侵され、身体中をかきむしる苦しみのなかに放り込まれた時、
  《ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。》
と聖書は記しています。
  《わたしの生まれた日は消えうせよ。
   男の子をみごもったことを告げた夜も。
   その日は闇となれ
   神が上から顧みることなく
   光もこれを輝かすな。
   ・・・・中略・・・・
   なぜ、わたしは母の胎にいるうちに 死んでしまわなかったのか。
   せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
   ・・・・中略・・・・
   日ごとのパンのように嘆きがわたしに巡ってくる。
   湧き出る水の様にわたしの呻きはとどまらない。
   ・・・・中略・・・・ 
   静けさも、やすらぎも失い
   憩うこともできず・わたしは わななく。》
            (旧約聖書ヨブ記3章3~26節)

私は【ヨブ記】のこの言葉を読むたびに切なくなるのです。
愛する者を奪われた方々の思いもまた、かくの如くか、と。
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自分の無力を知ることは、

2022-05-30 06:41:51 | 日記
日曜日でしたので先週に倣って自室で一人での主日礼拝をいたしました。
明るい五月の光が窓から入って来ます。
少し風がありますがトゲの無い初夏の風。
息吹・プネウマと言い換えたいほどの豊饒さです。
本日の礼拝説教のテーマは、
  『求めよ』(マタイによる福音書7章から)
でした。
「牧師説教要旨」で、矢内原忠雄著『キリスト教入門』からの引用を持って話して下さいました。
自分の生き方に何ら疑問など抱いたことの無い男性が、大学に入り様々な事象に遭遇し、自信を無くしてしまいます。
そうした生徒に先生が語りかけます。
『それはおそらく君が大学に入って得た最大の知識の一つでしょう。
自分の無力を知ることは、確実な人生のよりたのみ、人間としての立場を発見することの第一歩であり、そのため不可欠の前提条件なのです。』

と。

今日も諭された思いです。
85年生きて来て、最近は能力(脳力)も、体力も劣化している自分ですが、心のどこかには、〈でもさぁ、長い経験と言うものがあるんです〉みたいな、自信と言うか誇りの様なものが存在しています。
そうしたことが強く出てしまいますと、他人との関係で軋轢をひき起こしたり致します。
いつの間にか、自身の裡に陣取った気付かない「傲慢さ」。
そんなことを教えられました。
まずは、こころの饒舌さを糺し、沈黙を保ち、静かに「み言葉」に耳を傾けることの肝要さを教えられました。

今日は体調も良く、私にとってはいい一日でした。
小さいほうの孫(28歳)が、クルマを買い換えました。
本日新しいクルマがやって来たとかで見せに来てくれました。
この孫も病院へ勤めていますので、コロナに関しては自他ともにシビアな対応を講じています。
コロナが落ち着いたら、海へ乗せて行ってくれるとか。
先の事ですが、「ありがとう」です。
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五月のコーヒータイム

2022-05-29 06:42:28 | 日記
まとまった雨が降ったせいか、庭の花木たちは元気いっぱいって感じです。
柿の木は白い花を沢山つけ、葉っぱがトロトロと潤った緑色に輝いています。
今年は豊作になるかも。
我が家の小さな庭です。
名園の様な手入れが行き届いた花木があるわけではありません。
でも、この地に越して来た時から一緒の花木も、それなりの年を経て家族の様な存在です。
中には、春の園芸市で300円で買い求めたものもあって、それなりに根を張って枝を広げています。
月桂樹も、その一つ。
長男は小学生の頃、体育が大好きで運動会は楽しみのひとつでした。
1等賞を取った息子に、月桂樹の葉をあしらった冠(かんむり)風のものを拵えて被せてやったりもしました。
一本一本の花木には、あれこれと思い出が詰まっているのです。
サツキも咲き始めました。
そんな庭を眺めながら、ゆっくりコーヒーを淹れて頂いたのです。
とても、ゆったりした気持ちになれました。

雲が広がりがちでしたが、雨が上がって明るい日差しが届いた一日。
新鮮な旬の野菜が欲しかったので、JA直売所までタクシーとバスを使って行くつもりでしたが、近所に住む長女が代行してくれました。
連れ合いの買い物と違って、長女は「見繕って」買う事が可能です。
新鮮な野菜を手に取りますと、それだけで野菜のエネルギーが、私に注入される様な気がします。
長女と、野菜に、ありがとう。

【されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの頃の事なり。】(世阿弥「風姿花伝」より)

「花」など持たない私ですが、若さの持つ「時分の花」の時代は、とうの昔に過ぎてしまっています。
「花の失する」時を、今生きている私ですが、世阿弥の言葉などを思い起こして、今の「初心」を生きねば、などと考えた五月のコーヒータイムでした。
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「世界的な食料不足に直面する」とか。

2022-05-28 06:41:11 | 日記
知床半島沖で沈没事故をおこした観光船が、ようやく網走港へ運ばれました。
物理的事故原因の解明には、まだ日時を要するとのことですが、今後こうした事故発生を防止するためにも、しっかりとした原因究明をしてほしいと思います。
観光船は戻ってきたわけですが、行方不明の方々はまだ戻ってはいません。
捜査は、ますます困難になることでしょうが、一刻でも早く見つかることを祈るばかりです。

ウクライナの戦禍は、長引く様相を示しています。
私たちの国の援助も、結果的に戦争を長引かせる要因の一つになってしまったりすることもあるかもしれないと思いますと悲しくなります。
戦火が止んだからと言って、ウクライナが分断させられてしまうことなどは、あってはいけないことです。
〈徹底的にロシアを封じ込める〉、これまた容易なことではないことですし。
私のアタマなどでは、どうすればいいのか分かりかねます。
ただ、ただ、どちらの国の人間であっても、戦火で人命が失われることは耐え難いことです。
どの国にせよ、あからさまには「自国ファースト」の旗印は掲げませんが、もともとは、「自国ファースト」です。
「国際正義」と言っても、どのあたりで、手を打つかだけの違いかもしれません。
ただ、「戦争」と言う手段を用いることは、犠牲の方が多いことを人間は学んで来たはずです。

国連のグテレス事務総長は、今回のロシアのウクライナ侵攻によって、
「今後数カ月で世界的な食料不足に直面する」
と警告し、国際社会に早急な対応を呼び掛けています。
これは、私たちにも他人ごとでは済まされません。
日本の食料自給率を考えますと、寒気を催します。
戦争による「ひもじさ」は、太平洋戦争の時で懲り懲りしていますから。

若いころ書いた拙い「詩」(以前アップした覚えもありますが)です。
歴史の中では、法廷だって「正義」とは言えません。

   『ゲーム』

   ゲームの始まりだ
   建てつけのせいではないのに
   法廷の扉は
   ギィッと音をたてて開閉する
   裁判長が お出ましになると
   「起立」と号令がかかる
   被告人
   弁護人
   検察官
   傍聴人
   「一同 礼」
   たくさんの証拠品が持ち込まれ
   幾人もの証人が喚問され
   長い時間
   あちらからも こちらからも眺めまわす
   法廷がゲーム場だと
   誰も信じたくないので
   裁判長は神父の衣をまとい
   弁護人や検察官は法の書をその手に取る
   裁きの座に
   世の富がかけられ
   人の いのちがかけられ
   憎しみや思想などが
   背後で糸を綾なすから
   ゲームのことなど
   誰もが つい
   忘れてしまっている
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こころに余白が、

2022-05-27 06:49:12 | 日記
昨日は居住地の隣の市が突風に襲われました。
ニュースの映像で見ましたら、クルマがクルリンと横転。
持ち主の方はもちろん、その時、目撃した方たちはビックリなさったことでしょう。
同じ時刻に外へ出て空を見上げた時、北の空にモクモクした雲が湧いている様に見えていたことを思い出しました。
雹も降ったようです。
いよいよ夏になるのでしょうか。
最近の気象現象は激しい様相を示しますから油断はなりません。

今日の暑さは、さほどの事はありませんでした。
庭の草花の手入れというか片付けを、連れ合いの手を借りて行いましたので、気分はさっぱりしましたが、疲れた!

料理が得意ではありません。
でも、「医食同源」を信条としていますから、朝昼晩三度の食事は大切にしています。
食事の準備は、単に台所へ立って調理をするだけではありません。
野菜や、肉、魚、その他調味料などを買い求め、それぞれが無駄のない様に用いなければなりません。
もちろん、賞味期限などは十分アタマにインプットしておかねば。
特定の品物の購入を、連れ合いや近所に住む長女に頼めば買ってきてはくれますが、その季節、季節に出回る品を値段も含めて見繕って買ってくるためには、自分が店に赴かなくてはなりません。
〈あぁ 今日 さやいんげんが 安い〉
〈新玉ねぎ、いいのが入ってる〉
〈あら サラダ油 特売だ〉
とか。
やはり、行って自分の目で確かめたいわけです。
でも、体力に比して忙しすぎますと、炊事の仕事も負担になって来ることが多くなって来ました。
そして、誰かに(当面は、連れ合い)に当たってしまいがち。
そして、そんな自分にいらだったりする私です。
つまり、こころに余白が無くなってしまうのです。

若松英輔氏の詩をひとつ。

   『余白』

   こころに
   時を与えよ
   何かのための
   時間ではなく
   無為の余白を

   こころに
   コトバを与えよ
   文字になる
   言葉ではなく
   目には見えない
   生ける意味を

   こころに
   祈りを与えよ
   終わりなき
   願望ではなく
   彼方からの声を
   受け容れるための
   藍色をした沈黙を

   こころに
   慈しみを与えよ
   今日一日を生きた
   自己への
   慰めとともに
      (若松英輔著 詩集『幸福論』 亜紀書房刊)
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