ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

国と国とのキケンな報復の言葉が せめぎ合って。

2017-04-30 06:21:05 | 日記
スーパーで買い物をしての帰り道、団地内の小さな公園で ちょっと足を止めました。
この辺りの桜は殆ど散ってしまったのに、一本だけ 今を盛りと咲いているのです。
まだ若い樹です。

樹齢の若い桜は早咲き、と思っていましたので、「どうしたの」と、桜に言葉を
かけてみました。
そんな私の思い込みに応えるのが、バカバカしかったものか まったく無視。
人にも、国にも、それぞれ異なった事情が在るように、花の咲く「時」だって、
〈よーい ドン〉と、一斉に咲き出すわけではないのでしょう。

天気予報では、上空に寒気が入って来るとかで、天候が急変する恐れがある、として
いましたが、午前中は いい天気でした。

北朝鮮では、弾道ミサイルを発射したとか。
失敗に終わったと報じられてはいますが、この青い空に「ミサイル」というのも、
視覚的にはミスマッチかな、などと 呑気なことを、つい。

米太平洋軍のハリス司令官は、
《原子力空母「カール・ビンソン」を中心とする空母打撃群が、現在、沖縄県東方の
フィリピン海上を航行中で、「命令があれば北朝鮮を攻撃できる範囲にいる」》
と、下院軍事委員会の公聴会で証言。
そうしたニュースに不安感も抱きながら、春のまぶしい陽光の中に佇んでいました。

ツツジや その他の花木が穏やかに咲いている公園にいるせいでしょうか、
草花をこよなく愛した井上洋治神父さまの語られたことなどを、
懐かしく思い出したのです。

《イエスが宣教の根拠地としたガリラヤ湖近郊は、春ともなれば一面に
花が咲き乱れ、鳥が白い腹をみせて湖面をとびかうのを見ることができます。
ある日イエスは、この湖畔の草むらに腰をおろしながら、次のように人々に
語りかけました。
  『…………そこに咲いているアネモネをごらん。
   この花は、あなたがたのように苦労して衣類を紡ぐこともしていないけれど、
   でもこの小さな一輪の花が おのずとそなえている美しい衣装は、
   あなたたちがあこがれているあのソロモン王の衣装より はるかにすぐれている。
   今日は野にあっても明日は かまどに投げ入れられてしまうこのような小さな草でさえ
   神さまは このように美しく装おわせていてくださるのだ。
   それなら まして あなたたちを大切にしてくださり いたわってくださるのは
   当然なことではないか。
   信頼しなさい。
   神さまは 誰よりもあなたたちが今何を必要としているのかを知っておられるのだ』》
                            (井上洋治著作選集6より)

帰天されて3年になる神父さまは、山上の説教と言われている「マタイによる福音書
6章28~30節を上記のような言葉で話して下さったのです。

世界には今、国と国とのキケンな報復の言葉が せめぎ合い、
拭われない泪を流している幼い者たちも沢山いるのですが、
   『明日のことまで思い悩むな。明日のことは足自らが思い悩む。
       その日の苦労は、その日だけで十分である』
                     (マタイによる福音書6章34節)
という み言葉も思い起こされ、まずは 今日できることを為そう、と考えました。

遅咲きの、公園の若い 小さな桜に、
「さようなら、また 来年会いましょうね」
と言い残して帰ってきました。
                            〈ゴマメのばーば〉
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「自給率」のことなど。

2017-04-29 06:41:30 | 日記
いい天気でした。
程よい気温で、青い空が広がっていますと、それだけで、「あぁ いいなぁ」と。
今日の予定はありません。
ひ孫も 来そうもなかったので、ぶらりと出かけました。
「ぶらり」は、子どもの頃から好きでした。
好きと言うより、「ぶらり」という「時」がないと疲れてしまうのです。
つまり「余白」のような。

あまり人出のない公園へ行って柳を眺めていました。
この時期の柳の佇まいは何とも優麗です。
有るか無しかの風に ゆーらり ゆらりと。
見ているだけで、心も ゆったりと、時系列を超えて たゆたいます。

毎日新聞に連載されていた小池龍之介(僧侶・作家)氏の『つながりの引き算』が、
3月で終わりました。
最終回の3月12日の記事 【「他」を求めず瞑想】には、精神的な「食料」の
自給自足について記されていました。

(記事の中から)
  《ふつう、誰もが「このまま」では何かが足りておらず、欠落していると感じているもの
   ですね。
   その欠乏感こそが、幸福の自給率の低さを表しています。
   ええ、自給率が低いと感じているからこそ、よそから何か好ましいものを輸入すること
   により解消しようとするのです。
   たとえば趣味を見つけ、あるいはネットで人から反応をもらい、
   あるいは仕事での成功に酔い、あるいはまた、人とつながることによって、
   足りないものを補おうとしているのですね。
   が、己の「足りなさ」を補うために輸入に頼るなら、心の幸福のありかたは、
   輸入相手に依存してしまうため、その相手の出方や変化に一喜一憂するハメに
   なるということなのです》と。

そして、
  《幸福の指標を他人とのつながりに依存する以上、不安定さと欠落感に
   つきまとわれるのです。
   では、「他」を求めず、瞑想(めいそう)において内面に専念してみるならどうでしょう》
   との進言。

そして、
  《方法的に鎖国してみれば、「足りない」と思いこんでいたのは気のせいで、
   内面のみで完全に満ちており、食糧自給率は100%だったと気づくのです。
   かくして他に依存せずに、飄々(ひょうひょう)と生きられるのですよ。》
と、結んでいました。

柳の下に設えられているブランコに掛けて ゆーら ゆーら しながら、
小池龍之介氏の提案などを反芻していました。
《幸福の指標を他人とのつながりに依存する》
確かに、これは幸福の指標を《輸入》に頼っている様なものなのでしょう。
《飄々(ひょうひょう)と生きられる》かどうかは別として。

でも、やっぱり 人と人とは 繋がりたい、いや繋がってしまうなぁ。
そんなことを、揺ら揺ら考えながらの ひと時を過ごしました。

ゆーらり ゆーらり ブランコ揺れて、
心も ゆーらり ゆーらり と。
明日から連休です。
この公園も 子どもたちの声で賑やかになるのでしょう。
                             〈ゴマメのばーば〉
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遅ればせの「ごめんね」を。

2017-04-28 06:24:19 | 日記
早朝、電話がありました。
一瞬 「訃報」か、と思って、深呼吸を一つ。
それから、「もし もし」と。
『もしもし おばちゃん いい連絡だよ』
甥の声でした。

96歳の姉が、肺炎に罹り、救急車で病院へ入院してから、ほぼ一か月近く経ちました。
お見舞いに行った後、
〈快方へ向かっているよ〉
との連絡がはいりましたので、ひとまずはホッとしていたところです。
しかし、何せ高齢です、いつ訃報が入っても不思議ではありません。

甥からの電話連絡では、肺炎が治癒したので退院し、居住地から5分ほどの
距離にある特老施設への入居が決まったとのこと。
覚悟を決めていただけに嬉しい知らせでした。

持病のある甥は74歳。
姉が退院出来たとしても、その後、甥夫婦が介護に当たらなければならないことを考えますと、
私は、複雑な思いで日々を過ごしていたのです。
ですから、姉の回復をストレートに祈ることにも ためらいがあって、
〈甥たちの家族に必要なものを お与えください〉
と、少し悲しい気持ちで祈っていたのです。
そんなわけで、良かった、の一言に尽きる連絡でした。

甥とは言っても、私とは6歳しか違いません。
東京在住でしたので、学校が夏休みに入ると、夏休みの宿題などを持って、
我が家へ何日かの宿泊にやって来るのです。

齢が近く、まだ私も学生だったせいもあって、甥の宿題を看るのは私の役目。
甥は、遊びほうけてばかりで、あれこれヘリクツをこねて勉強しません。
叱られるのは、私で、何とも割の悪い役目でした。
時折、そうした甥にカミナリも落としましたし、意地悪もしました。
心の中では「もう帰れ!」と。

姉は甥を、早世した父親の後を継いで医者にしたかったのですが、そちらへの道へは
進みませんでした。
学生時代から、全国をバイクで経めぐって、時には、滝つぼに落っこちたりも。

山小屋を経営するのが夢だったのですが、それもかなわず、一応は安定した企業に
勤めましたが、50歳半ばで早期退職。
住んでいたマンションを購入した時のローンも返済完了。
娘たちも、それぞれに、成人、というところで、自分が住むための山小屋を、
ほとんど自力で作り上げました。

そんな、生き方を少々危なっかしく思っていた私でしたが、甥夫婦は共に母親を大切にして
くれています。
掌を合わせる事も しばしば なのです。

そして、今回の連絡の電話、
『もしもし おばちゃん いい連絡だよ』
は、上出来そのもの。
まずは、私を驚かせまいという配慮から、『いい連絡だよ』と、
開口一番に告げてくれたのです。

あぁ、私よりも、成長していたかも と、うれし涙が。
受け取る側の立場に立った電話のかけ方が出来たことは、
身内ながら、褒めて上げたいと思います。
                         〈ゴマメのばーば〉
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〈東北で良かった〉は国策でした。

2017-04-27 06:29:18 | 日記
今村復興相の『東北で良かった』発言。
確かに、不適切だったと思います。
被災者の一人としては、不快な発言に感じられました。

原発事故に伴う自主避難者の帰還についての「自己責任」発言と一連の対応は
容認できるものではありませんでした。
今回の発言に関して言えば、おそらく、「東北で良かった」、ということは、
〈東北で事故が起きて良かった〉という事ではなく、
〈首都圏に近ければ その被害は莫大な額になった〉と、述べたかったのでは
ないでしょうか。

でも、深刻で悲しみのいっぱい詰まった災害を、金額の多寡で捉えてしまったような
無神経な発言は、口にしてはいけないものでした。

安倍首相は、直ちに今村氏を更迭し、国民に謝罪をしましたが、もっと早く、
更迭させなければならない方も、いるのではないでしょうか。
「共謀罪」を今国会で成立させんがためには、この「失言」に早くケリをつけたかった、
としか思われません。
この 政治的したたかさに、ある意味 舌を巻くばかりです。

「ことば」の使い方、用い方は とても難しいと思います。
若い頃、傍から見れば天寿を全うされて逝かれた方の告別式で、その親族の方へ、
「年齢に、不足はないでしょう。大往生ものですよね」
と、口にしたことがありました。

告別式の後、尊敬している先輩に、きつく たしなめられたことを覚えています。
つまり、相手の悲しみに寄り添っていない言葉だったからです。
現在、齢80歳になっても、私は、自ら発する言葉を制御できずに臍を噛むことの
多い人間です。

それから、〈東北で良かった〉とのコトバに関して一つ言わせて頂ければ、
東北の過疎地で地域産業にも乏しく、経済力に弱い地域に、政府は「原子力発電所」を、
作りました。
その地域も、原発への様々な不安はありましたが、「経済性」がらみで、
受け入れてきたのです。
もし、原発が全く安全なものなら、東京湾周辺に作っても いいはずです。
東北地方に限らず、万が一の事故に備えて、過疎地域に原発を置くのではありませんか。

ですから、原子力発電所に関しては、過疎地としての〈東北で良かった〉のです。
〈東北で良かった〉は国策だったのです。
                            〈ゴマメのばーば〉
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『要するに、魔物だよ』

2017-04-26 06:23:02 | 日記
佐賀県の山口祥義知事は、24日の記者会見で、
《九州電力玄海原発3、4号機の再稼働に同意する。》
と述べました。

昨年の7月、脱原発を掲げて就任した鹿児島県知事・三反園訓知事も、
専門家委員会の意見書を受けた形で、1号機の運転容認を県議会で表明しています。
こちらは、知事の「変節」という批判は免れないと思います。

原発再稼働を巡って、こうした立地自治体の再稼働容認発言に、
私、福島県に住み福島第一原発事故で被害を被った県民の一人としては、
複雑、かつ悲しい思いでニュースを見つめざるを得ません。

先だって読んだ書籍『すずの爪あと』(乃南アサ著 新潮文庫刊)から引用させて
いただきます。
原発誘致で、町が真っ二つに分かれた その後の町に生きる人たちが描かれています。

  《「げんぱつ って、一体何なの」
   「要するに、魔物だよ」
   「魔物?」
   「化け物って言ってもいいかもしれない。
   何しろ、人によっては〈打ち出の小槌〉や〈宝の山〉に見えたり、
   〈生きていく上で何より大切なもの〉に見えたり、
   そうかと思えば〈未来永劫、取り返しのつかない災いを呼ぶもの〉に
   見えたりするそうだから。
   ……………………だから「推進派」と「反対派」が出るのだと……………
   「それに、原発には人間さまが何より好きな、アレがべったり
   こびりついてるからね」》

悲しいけれど、これが現実の様な気がします。
好き好んで、「キケン」と言われているものを身近に置きたい人などいないはず。
でも、暮らしていくためには…………の選択。

だから、「安全」とする政府や、その他の学識者の見解を信じる以外になくなってきます。
そうして、「安全神話」が生まれて。

この道は、かっての私たちの住む福島県でも歩んできた道でした。
立地市町村に居住こそしていませんでしたが、「無関心」に近い道を生きて来たことに、
私は、今も忸怩たる思いを抱き続けています。
だから、再稼働にGoサインを出した地元の方々を、他人事とは思えません。
悲しく思います。
どこかで、ふっ切らなければと。

もう一冊、最近読んだ書籍からの引用です。
遠藤周作『人生の踏絵』 新潮社刊 2017・1・20
 (本の帯から)
  《人生にも、日常生活にも、どんな時代にも〈踏絵〉はある。
   その踏絵を踏んでしまう人間はたくさんいるだろう。
   けれど、そんな弱い人間にこそ、神は忍び寄り、語りかけてくるのだから――。
   ハリウッドで映画化された不朽の傑作『沈黙』の創作秘話をはじめ、文学と宗教、
   人生の救済と奥深さを縦横に語る名講演集、初の活字化!》

 (本の中から)
  《キリシタン時代とか踏絵とか、自分たちにとってははるか遠い時代の様に思って
   いたけれども、あの小説を読んでいくうちに、私たち一人ひとりにも「時代の踏絵」
   「生活の踏絵」、「人生の踏絵」があったことがわかりました、と。
   そんな手紙を読んで、なるほど、その通りだと思い至りました。
   私のように戦争中に青年時代を送った人間にとっては、自分の夢とか、
   美しいものに対する憧れとか、こういう生き方をしたいという希望は、
   心ならずも当時の政治・社会情勢のためにねじ伏せて生きなければならなかった。
   いわば、それが私たち世代の踏絵だったわけです。》

いつの時代でも、社会も個人にも、「踏絵」があるのでしょう。
生きて行くことは、悲しいかも。
                           〈ゴマメのばーば〉
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