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ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

はじまり はじまり

2016-07-31 06:15:45 | 日記
梅雨明けです。
お日様が戻ってきました。
「熱中症注意」の警告も出されています。
暑くはなりますが、夏ですもの。
元気な お日様に会いたいじゃありませんか。
今年の盛夏との出会いが はじまり はじまり。

    『であいのはじまり』
                         工藤直子
     緑色の地球にむかって
     太陽が
     光のゆびをのばしてよびかけた
     「いっしょに あそぶもの
     このゆび とまれ」

     そうか
     あそびたがりやの太陽は
     こうやって
     ともだちを ふやすんだね

こんなにも、素直に自然と戯れることを、
私は、どこかへ置き忘れてきたらしい。
〈このゆびとまれ〉が大好きです。

無理強いではなく、止まりたい者が止まる。
輪を作ってもよし、
ひっそりと抜け出しても 誰も とがめだてなどしない。
おーい と、また呼びかけるもよし、
黙って眺めているだけでもいい。
そんな輪はないか、そんな和はないか。
                         〈ゴマメのばーば〉
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胸を張って生きてください。

2016-07-30 06:23:33 | 日記
おぞましい殺人事件の植松容疑者は、
「障がい者は不幸をつくることしかできない」
などと語っていたとのこと、何ともやりきれない思いに駆られます。

障がいの程度に軽重があったとしても、私は、障がいを持っている方々を、
「障がい者」と呼びたくはありません。
気の毒な方々と、言いたくもありません。
ただ、この社会に生きていくのには、ハンディを持っている方と、だけ思っています。
ハンディ、という事であれば、私などの高齢者なども、生きるための多くのハンディを、
持っています。
家族や、社会制度に助けて頂かなければ、生きてはいけないのです。
以前、このブログにアップした記事の一部を再掲いたします。

   《「障がい者」は私です。(2013・11・28)
    …………………………………………………………………
   JR駅前。
   バスターミナルで、私はバスの到着を待っていました。
   駅構内から出てくる人、バスを待つ人、誰もかれも忙しそうです。
   バスが到着。
   バスの行き先表示など見もせずに、私はタラップに足をかけました。
   すると、誰かが背中をトントンと軽く叩くのです。
   振り返りますと、
   一人の男性が、私が乗ろうとするバスの「行き先表示」を指差しています。

   そのバスは、私の乗るバスではなかったのです。
   急いでタラップを降りました。
   背中をトントンと叩いて教えて下さった方は、話し方に障がいがある方です。
   時々、私と同じバスに乗り合わせる方で、知人とまでは言えない顔見知りの方。

   バスを乗り換え、外を見ましたら、
   その方は、立ったままバスを見送っていて下さいました。
   軽く うなずきながら、
   「良かったね」の表情で。

   もし、その方と私が逆な立場だったら、
   「あなたが、いつも乗るバスではないよ」
   と、多分 私は教えなかったでしょう。
   友人でも 知り合いでもない人の乗るバスの行き先など、
   私は気にもかけなかったはずです。

   あぁ、世の中 忙しく動いていても、
   こんなにも 気持ちに余裕のある方だっているのだ、と嬉しくなりました。
   「話す」という機能に障がいがあっても、
   「話す」という、人と人との絆からすれば、
   私の方が障がい者なのでしょう。

   誰もかれも忙しい夕方のバスターミナル。
   私はゆったりしたものを いただいたのです。

   『ありがとう』
   と、心の中で言いました。

   風も冷たかったのに、
   何だか、あったかーくなった今日の夕方でした。》

若いころ、障害を持つ方たちとの交流がありました。
〈目の不自由な人は、他の人の「耳」となり、
耳の不自由な方は、他の人の「足」となり………………〉
それぞれが助け合って生活を営んでいる姿に、
いつも感銘を覚えていたのです。

「寝たきり」で家族に面倒をみてもらっている ある方が、文字盤で、
〈あなたのために、祈っている〉
と、語って下さったとき、私は、涙がこぼれました。
そして、「あぁ、障がい者は私の方だ」と、思ったのです。
私は、障がい者と呼ばれている方々から、沢山 たくさん教えられ、
大切なことに気づかせていただいています。

こんな、いやな事件がありましたが、皆さま、胸を張って生きてください。
こうした事件が起こらないように、私たちも注視いたしますから。
                               〈ゴマメのばーば〉
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高らかなファンファーレを、

2016-07-29 06:17:11 | 日記
野次馬根性を持っているせいか、町を歩いたり、乗り物に乗ったりした際に、
ついつい「ポケモン探しの人」を探してしまいます。

スマートフォンの出始めの頃、孫が買ってきて、ゲームに付き合わされました。
もう、まるで ダメ ダメ ダメ。
散々な目にあいました。
私には、ゲームは無理、向いていません。
というより、ついていけなかったのです。
それに、楽しめません。

『ポケモン騒動』という言葉が飛び交っています。
《ポケモンたちは入院中。早く退院するために探さないで》
というユーモラスなポスターを出した病院もあるとか。
でも、危険な地域へ入るようなことは絶対にあってはならないと思います。

「これって、お祭りに参加するような楽しみなの?」
と、若い方に聞いてみましたら、
「いや、昆虫探しの面白さかな」
と。
夏休みの林間学校で、カブトムシやクワガタを探し、競い合ったあの楽しさ、
と言われれば、納得です。
捕まえる喜びというのは狩猟時代から受け継いだ習性なのでしょう。

ゲームに参加せず、いや参加能力を持たない〈ばーば〉は、密かに考えます。
ポケモンを一網打尽にしてしまうソフトはないものかと。
そして、
『ポケモンは、すべて捕獲されました』
との張り紙と共に、高らかなファンファーレを打ち鳴らします。

さて、捕まえたポケモンの始末はどうしたものか。
相手は、モンスターですから、油断はできません。
コーヒーショップの窓から梅雨空を眺めながらの、
〈ばーば〉の、くだらない発想でした。

ところで、マスコミさま、東京都知事選、どうなってんの?
あまり、報道されないんですけど。
私が、見てないだけ?
誰かが、捕獲してしまったわけ?
                           〈ゴマメのばーば〉
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なんとも おぞましい事件

2016-07-28 06:23:18 | 日記
なんとも おぞましい事件がありました。
犠牲になられた方々と、そのご家族のことを考えますと、言葉が出ない思いです。
ニュースなど見たくもありません。

でも、容疑者の非人間性を糾弾して見せただけで、
おぞましさが消失するわけでもありません。
衆議院議長に宛てた犯行の予告・趣意を読んでみますと、
なぜ犯行を防げなかったか、という事もさりながら、
これは、既成社会に対する挑戦状ともいえるような気がします。
たしか、こうした内容の小説がありました。

容疑者の、「障害者がいなくなればいいと思った」との供述。
フィクションはともかく、ヒトラーの行ったことでもあります。
「異常者」「人」などという言葉で済ませるわけにもいきません。
生産性がなく、誰かの庇護を受けねば生きてゆけない者を、
人は、社会はどう捉えていかなければいけないのでしょうか。

生産性の低かった むかしむかし、「姥捨て山」がありました。
現代社会でも、出生前の検査で、遺伝子に異常が見つかった「いのち」は、
産声をあげられない事実も耳にいたします。
「いのち」の共生とは何か、よく考えなければいけないと思います。

ヒトラーは、『わが闘争』の中で、
  《肉体的にも精神的にも、不健康で無価値なものは、子孫の体に 
   その苦悩を引き継がせてはならない。
   国家は、幾千年も先まで見据えた保護者として振舞わなければならず、
   個人の願いや我慾などは、なんでもないものとして、諦めるべきものである》
と言っています。

ナチスの虐殺に異を唱えたフォン・ガーレン司教は、
  『貧しい人、病人、非生産的な人がいて当たり前だ。
   私たちは他者から、生産的であると認められた時だけ生きる権利が
   あるというのか。
   非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ、実行されるならば、
   我々が老いて、弱った時、我々も殺されるだろう。
   いま、弱者として標的にされている精神病者だけでなく、
   非生産的な人、病人、傷病兵、仕事で体が不自由になった人すべて、
   老いて弱ったときの私たち全てを殺すことが許されるだろう』
と、説教しています。

C・J・エンツラーは、著書『もう一人の わたし』の中で述べています。
  《幼子の最大の力は弱さである。
   弱くて無力だからこそ、両親は世話をし、保護を与える。
   同じように、あなたの最大の力も弱さである》と。

「弱きもの」「力無き者」を、どう受け入れ、
どのように付き合っていかねばならないのか、
自身と関わる事柄として 問われているのかもしれません。
                              〈ゴマメのばーば〉
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はーい。ポケモン 気をつけて!

2016-07-27 06:25:31 | 日記
経済に疎い私です。
でも、家計の管理は何とかやってきました。
共稼ぎ夫婦ということもあって、家計簿などはつけたことはありませんが、
まあまあ、のところで80点というところでしょうか。
借金ゼロ。
預金は、要介護となった場合に備えて少々。

ヘリコプターマネー。
解かりません。
調べてみて、文章としては理解できますが、
なるほど、というところまでは到達しませんでした。
インフレを起こすだろうということは、よくわかります。

太平洋戦争中、国民学校の低学年でしたが、
月に一回、学校で お金を取りまとめて預金していました。
預金させられた、と言ったほうが正しいのです。
“お国のために”ということでした。

戦争末期です。
お金も物資もナイナイづくし。
母は、わが子に肩身の狭い思いをさせたくなかったのでしょう、
預金日には、なにがしかの金額を工面して持たせてくれていました。

さて、敗戦。
預貯金は閉鎖、学校預金が手元に戻ってきたときは 
とてつもないインフレとなっていました。
鉛筆数本しか買えない貨幣価値になってしまっていたのです。

安保法・改憲…………、きなくさい世の中になりそうな気配が。
また、インフレともなれば、蓄えた幾ばくかの預貯金の価値も失われてしまいます。

麻生副総理が、以前
“いつまで、生きるつもりなのか”
などとの発言で顰蹙を買いましたが、
高齢者は守銭奴のように金銭に執着しているわけではありません。
介護が必要になった時、子どもたちに金銭的な負担をかけたくない、
そんな理由で、預貯金を保持しているのです。
少なくとも、私の周囲の方々は、そう思って暮らしています。

連れ合いが、
“ちょっと 散歩に”
と、玄関先で、私に呼びかけました。
“はーい。ポケモン 気をつけて!”
と、私。
“おれ、ゲームなんて やらないよ”
ですって。

「ポケモンGO」など、やるはずはありません。
やれないと思います。
見ながらスマホの自転車などにぶつかるな、
という意味での“気をつけて”でしたのに。
ダメだ、こりゃ。

ヘリコプターマネーなどについて考えていましたら、いつとはなしに視線は空へ。
ねずみ色の雲が、濃く 薄く 散らばっていました。
まだ、梅雨明けにはなりません。
                                  〈ゴマメのばーば〉
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