ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

阿修羅を秘めた「挑戦者」の舞い。

2015-11-30 06:13:16 | 日記
羽生結弦がフィギュアスケートで、322・40の高得点を獲得したのは、
実に、快挙と言うものでした。
他の選手たち、国の内外にかかわらず良くがんばって、美しいものを見せてくれました。

羽生結弦さん。
技術もさることながら、指先に至るまで、しなやかな演技に溢れていました。
あれは、スポーツではなく「舞い」だと思います。
笑顔も、スピーチも、まったく グー!と言いましょう。

私はスポーツが好きではありません。
だから、スポーツを楽しむことは あまり無いのです。

でも、オリンピックの時の羽生結弦選手は、「ブラボー!」だったのです。
あの時は、ただただ見とれていたのでした。
そして、ブログに記したのです。

   これは、作品である
   名付ければ、『阿修羅の舞い』
   興福寺の、
   あの阿修羅像の

   成熟とは言えない初々しさ、しなやかさ
   憧れと、かすかな苛立ち
   強靭な意志、と悲しみ
   差しだされる伸びやかな上肢
   支え運ぶ しなやかな下肢


   「阿修羅」のように
   一歩踏み出せば、その瞳から涙がこぼれ落ちかねない思いを
   押し潜めた痛みにも似た優しさ
   風のように、少年のような恥じらいすら秘めた舞い
   阿修羅の舞い
と。

今回は、阿修羅を秘めた「挑戦者の舞い」でした。

SP・フリー・世界最高得点という大きな成果を得た羽生結弦選手、
   『次からは、今回の数字が、かなりのプレッシャーとしてかかってくる。
    それに打ち勝つくらいの精神力をつけなきゃいけない』
と、決意を述べました。

そうです、そうです。
闘いとは、自身との闘いですから。
                                  〈ゴマメのばーば〉
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「ストレイばーば」

2015-11-29 06:23:32 | 日記
オウム真理教の菊地直子元信者は、東京高裁で無罪判決を受けました。
『私が運んだ薬品で作られた爆弾で、
何の落ち度も責任もない方に、重篤な被害を与えてしまった。
本当に申し訳ありませんでした」
と、謝罪。

被害に遭い、家族の命を奪われた方や、今なお後遺症に苦しんでいらっしゃる方々の思いは
様々で、複雑ではないでしょうか。
しかし、「法」による裁きは、事実にしっかり依拠しなければならない事は
自明なことではあります。

17年間、「逃亡」と言う日々を、どのように生きて過して来たものか、
心の内までは知る由もありません。
心の内側は、本人自身にとっても、絶えず揺れ動く捉えきれないものではないでしょうか。

「オウム真理教」とは、何だったのか、
自らが正義とする信念の前では、「他者」とは、いかなる存在なのか、
本人も、改めて、考え続けてほしいと思います。
という、私もまた他人ごとに留まらず、考えねばならない事がらだと思います。

僧侶であり、芥川賞受賞作家としても活躍中の玄侑宗久さんは、『やすらぎ通信』の中で、
次のように記しています。
  《東洋では「自分」という言葉に象徴されるように、人間を「自然の分身」ととらえています。
   この自然というのは、コントロール不能なものです。
   ですからその自然の一部ということは、私たちは確固とした存在ではなく、
   揺れている存在だということです。
   揺れるとは、変化することですね。
   この、「人は変わる」という考え方があるからこそ、教育や修行をする意味が
   あるんだと思います。
   もっと言うならば、たとえ悪いことをしてしまったとしても、
   更生することができるということです。
   ………………………………………………………………………………
   ………………………………………………………………………………
  「志(こころざし)」が強すぎるのも自分を苦しめることになります。
   たとえば「俺は絶対に遅刻をしない」という志を立てて、それに縛られてしまうと、
   猛スピードを出してでも遅刻しないほうを選ぶことになる。
   それは危ないことですよ。
   だから志を少し小さくして、「私はたまにしか遅刻をしない」くらいにする。
   いわば「寸志」に表現を変えるくらいがいいのだと思います。
   少年は大志を抱きますが、中年は寸志くらいにしておくんです(笑)》

少々長い引用をさせていただきました。
私自身に、よく響いてくる言葉でした。
菊地直子さんも、オウム真理教に入った当初の頃は、
自己変革や社会改革などへの想いが強かったのかもしれません。

《少年は大志を抱きますが、中年は寸志くらいに》に。
笑いが込み上げてきます。
私などの後期高齢者は寸志ならぬ「微志」程度でいいのかも。

いやいや「志」などにこだわらず、五木寛之氏が述べられているように
  《人生の最後の締めくくりである「死」に向かって帰ってゆく時期。
   成長する中で身につけた知識と記憶を少しづつ世間に返してゆく。
   子供に還り、誕生した場所に還る》
という「遊行期」を生きるべきなのかもしれませんが。

はてさて、『べき』となると、これまたシンドイことに。
ストレイシープならぬ「ストレイばーば」を生きています。
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“焚くほどは”

2015-11-28 06:37:06 | 日記
昨日。
しばらくぶりに、朝は青空。
日中は、時々重たげな雲も広がったりして、雨などもパラパラと。
夕方は、あっという間に暗くなってしまいます。
何だか、一日の時間が少なくなってしまった様で、損をしたような気持に。
そんな初冬の一日でした。

毎年やってくる冬の訪れなのですが、やっぱり、どこか寂しさが漂うのです。
それに、毎年、平均余命は減って行くわけですから、
当たり前といえば極めて当たり前のことではあるのです。

街路樹の落ち葉が、門扉の下辺りで吹き溜まりになるので、
一日数回、落ち葉を集めるのもこの季節の仕事。
熊手で落ち葉を集め、ビニール袋に収納します。
かさが大きい割には軽いので、ゴミ出しは、いっこう苦になりません。

床の間の掛け軸も、掛け替えました。
『焚くほどは 風が持てくる 落葉かな』
私の好きな良寛さまの詩句です。

子どもの頃、といっても60~70年も前のことですが、「落ち葉焚き」の煙が、
町のあちこちに流れ、漂っていました。
ちょっと、むせてしまいそうな、あの匂い。
懐かしい匂いです。

焚いていた、あの人、この人、口やかましい おじいちゃんが居たりして。
懐かしい人々は、もう、あちらの世界へ行ってしまって、手をかざしていた幼いもの達も、
私同様、歳を重ねました。
やっぱり、何かものさびしくて、気持がポツンとしていました。

私の好きな羽生結弦、
「NHKフィギュア」ショートプログラムで106.33をマークしました。
舞うような あの滑り、思わず「美しい」と、ため息が出ました。
若い、しなやかな美しさです。

『青春・朱夏・白秋・玄冬』
私の、今在るところは、『玄冬』辺りなのでしょう。

来年の夏の初め頃、「ひ孫」が誕生の予定です。
「子育ては、出費が増えるなぁ」
そんなことを、ふっと洩らした孫へ、
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、“焚くほどは 風が持てくる 落葉かな”だよ」
と、言ってみました。

ちょっと、風が強くなってきました。
強風注意報が出されたもようです。
明日の朝は、落ち葉も沢山集まってくるのでしょう。
                                  〈ゴマメのばーば〉
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バカに付ける(効く)くすり?

2015-11-27 06:23:49 | 日記

なんか変なのです。
遠くを見ると、人やクルマ、広告塔の文字までが二重に見えてしまうのです。
片目をつぶって、パチパチ、パチパチ。
瞬きをしながら見える形を確認しても、やっぱり変。

遠視のメガネの度数が合わなくなったものか、
それとも眼精疲労?
歳も考えずに、このところ目を酷使していたことは確かでした。
細字の書籍、それも、かなりの夜更かし。
孫が買ってきてくれた「タブレット」の使い過ぎ。
などなど。

とにかく、眼科へ行って来ました。
「目の異常は無し」とのことですが、
『モノが二重に見えるのは、頭(脳)に何等かの異常が在るかもしれない』
との助言を受けましたので、かかり付けの内科医を受診しました。

診察の結果、しばらく様子を見てから次の検査(CT)へ、ということで、
目薬と内服薬を頂いて帰ってきました。
内服薬の説明書をみましたら、
  ☆心臓の働きを回復させる
  ☆脳の血液の流れを良くする
  ☆目の調整機能・耳の障害からくる めまいの改善
などと記されていました。

説明書を読んで、笑ってしまいました。
先だって、孫が買ってきてくれたタブレットの音声入力が面白くて、
〈バカに付ける薬は?〉などと、バカバカしい質問を繰り返して遊んでいた私でした。
長時間、いじくり回した挙句に、
「まったく、バカに付ける薬はない」
と自嘲気味に呟いたばかりです。

処方された内服薬の効能には、〈脳の血液の流れを良くする〉とあるではありませんか。
血のめぐりが良くなる、ってことは、アタマが良くなることに通じる話です。
これって、「バカに付ける(効く)くすりじゃない」と、また、一人でバカ笑い。

一時的な眼精疲労だったものか、今のところ、自覚的な異常は感じられません。
〈歳なりに健康〉と自分を評価していますが、これも至ってあいまいな評価なのです。
要は、自分が、“このあたりで まあまあ”と、納得できるレベルを受領するということです
でも、着々と老化は進んでいるのでしょう。
『粛々』と。

昨年の3月に帰天された井上洋治神父の言葉が、ふっと聴こえてきます。
  
  “歳を重ねて行くと言うことは、神さまから頂いているものを、
   一つずつお返しして行くことです”
                                 〈ゴマメ〉のばーば
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悲しみの大きさと、痛みの激しさを。

2015-11-26 06:30:38 | 日記
  『私は、君たちに憎しみの贈り物をあげない。
   君たちはそれを望んだのだろうが、怒りで憎しみに応えるのは、
   君たちと同じ無知に屈することになる』
テロで妻を亡くしたアントワーヌ・レリスさんが、テロ実行犯に呼びかける形で
つづったフェイスブックへの投稿が、多くの共感を呼んでいるそうです。

  『報復ではなく、残された1歳半の息子との日常を取り戻すことこそが
   テロに屈しないことだ』
という決意のメッセージに対して、テロはあってはならいという思いと共に、
奪われたいのちへの哀悼の念を捧げたいと思います。

  《何より大事なのは、憎しみの連鎖を断ち切る努力である。
   怒りにまかせて報復するのはたやすいが、人々に恐怖心と憎しみを植え付ける。
   「敵と味方」に分断して争わせることこそテロリストの狙いだ》
毎日新聞 2015年11月25日 社説は、こう記しています。
この社説、私も同感です。

テロは断じて許されるべきことではありません。
でも、《君たちと同じ無知に屈することになる》
と言う表現は、相手を「無知」と決め付けることで、
むしろ、テロリストに より強い反感と憎悪を増幅させはしないでしょうか。
私は、この《君たちと同じ無知に屈することになる》との表現に、
アントワーヌ・レリスさんの、悲しみの大きさと、痛みの激しさを見る思いがします。

人間、神ならぬ身として、人を許すことなど容易ではありません。
まして、愛するものの命を奪われたりすれば、
私などは、とても、とても憎しみしか持てないでしょう。

〈憎しみの連鎖を断ち切る〉
第三者としてなら、言葉にできますが、当事者ともなれば、
心底から、こうした言葉を発することなど至難のことです。

パリでのテロだけに止まらず、それぞれの国や、私たち一人びとりも、
テロに対して、いかに向かいあうのかが、問われているのかもしれません。

空爆や、軍事作戦の協調だけで、テロが防げないことは確かです。
                                  〈ゴマメのばーば〉
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