散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

人間の実存と向きあった政治学~中山俊宏氏の「追悼 永井陽之助」

2015年09月03日 | 永井陽之助
経歴を見ると、永井が東工大を定年退職し、青学大へ移った頃に中山は入学したようだ。青学で博士課程を卒業し、この追悼が中央公論(2009/5)に掲載されたときは、津田塾大准教授として教鞭をとっていた。

初めに、授業から永井ゼミでの印象的なシーンとそこから受けた衝撃を語る。
次に、永井政治学の核心を「挑発する知」と語る。
最後に、永井の思考は「尋常では無い集中力」に支えられたと閉じる。

永井の人となりと渾然一体となった“永井政治学”の特異な性格を簡潔に表現した文章だ。北大―東工大―青学大を通して永井の薫陶を受けたなかでも、おそらく、一番弟子であろう中山ならではの、見事な追悼記だと感じる。

中山はバブル経済の時代に青春期を過ごした。これは、戦争の時代を旧制二高で過ごした永井の環境とは全く異なる。ここで中山の世代は永井の「何に」惹かれたのか?それは「現実主義者」にではなく、「危険な知」にだと述べる。

続いて、「人間精神の深奥をふと垣間見た時に見える残忍な表情から立ち上げた政治学…啓蒙する知とは対極にある挑発する知が永井政治学の核心にはあった」と述べる。

なるほど、バブルの時代の頃、永井は現代主義者としてマスメディアにも登場する国際政治の論客であった。しかし、中山を始めとして永井の回りに集まった学生は、永井の表面的なステータスではなく、知的な刺激を放つ、その存在感に惹かれたと云いたいのであろう。

確かに永井は政治的リアリストとして、彼が軍事的リアリストと呼んだ元外務官僚の岡崎久彦と論争をしていた。また、それ以前にもレーガンに近い米国の国際政治学者とも論争していた。

また、永井は学生相手の話の中でも、論争になると口角泡を飛ばす様に、自分の主張を繰り広げ、夢中になるクセがあった。そういうことも含めて、中山が永井に挑発の知を感じるのも判る気がする。

しかし、それは中山たちが永井に、知的に挑発されたことを意味するわけではないだろう。何しろ、「大学に残ったのは、永井の話を聞くためだけ」と感じる位だからだ。逆に、それ故に、永井政治学の核心に啓蒙の知とは反対の知を見出したのかも知れない。学生時代は比較的にみて、先生から啓蒙を受ける立場にいるからだ。その一方で、血気盛んな若者は啓蒙に反発して自立を志す。

しかし、永井政治学の核心に挑発する知を彼らが感じたとすれば、それはその時代の空気に青山の若き住人たちが巻き込まれていたように思われる。「平和の代償」に収められた論文は、三島由紀夫、福田恒存を興奮させたという。先に書いた様に論争もあった。しかし、それは本人たち以外には、回りを取り巻く外部環境か、過去の情報に過ぎない。

直接的に接触した永井から何を感得したのか?
「永井政治学は継承できる類いの知ではない。それは戦後という特異な時代状況と永井陽之助という稀有な個性が交差した場所に発生した圧倒的な現象であった」としても、「その瞬間を逃すまいという尋常では無い集中力」について、いま少しその核心に迫る個人的体験を語ってもらいたかった。追悼記という性格から長さにも制約があるから致し方ないだろうが。

こんな感想が頭に浮かんだのは、筆者が「啓蒙の知」の対極にみるのは、リースマンの学問論に及んだ「大衆社会における権力構造」(「政治意識の研究」所収)において、永井がリースマンを引用し、敷衍した「自己認識の知」あるいは「自己解放の知」であり、永井政治学の核心もそこにあると考えるからだ。

なお、筆者は団塊世代として高度経済成長時代を過ごした。そこで、バブル経済時代の中山から見た永井とは別な印象を持つのだろう。また、永井にすれば、教養課程の東工大生と専門家を目指す青学大生では、接し方、話す内容等も異なっていたのかも知れない。
この辺りの違いを時代と合わせて論じるのは非常に面白いと思う。しかし、これには相当な力量が必要であろうから筆者は遠慮せざるを得ない。

      
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