散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

日ロ平和条約を結べるか~「永井構想・北方枢軸」から50年

2016年09月07日 | 永井陽之助
「日本は第一に、基本的に現状維持国家であり…。日本は西側の諸国と友好関係を結び、次第に、経済的にも、政治的にも現状維持国に転化してきたソ連、東欧諸国との友好関係が開かれていく必然性を持っている。
それは客観的な利益領域の共通性を持つからであって、対ソ外交は、モスクワ=東京=ワシントンを繋ぐ北の枢軸に発展する…」(「平和の代償」P109)

これは今から50年前(1966/3中央公論)に発表された「日本外交における拘束と選択」での基本的な選択の部分として論じられた政策提案である。この論文自体は現実主義対理想主義の論争を巻き起こした一つとして、有名である。一方、この構想が当時、どの程度議論に上ったのか、定かではないが、それほど注目されなかったように感じる。

それは、その論文の直ぐあとにも書かれているように、「…以上の北方枢軸の構想は一つの難点を持っている…」からだ。南北問題において、日本が北に帰属し、東南アジア地域、A・A(アジア・アフリカ)諸国に背を向ける印象を与えることになるためだ。

確かに、歴史的にみれば、その後の日本は東南アジアへの進出を図った。また、アジアNEIs諸国の第一世代である「四匹の虎(韓国、台湾、香港、シンガポール)」は、この頃から高度成長が始まっており、タイ、インドネシア、マレーシアなどが続く(「戦後世界経済史」猪木武徳(中公新書2009))。

従って、政治的にも難しい北方枢軸は“現実的”ではなかったのだと思う。しかし、この構想は迂回的アプローチを重視するという意味で、他のいわゆる現実主義者とは異なり、永井独特の発想を示したものと感じる。

海を挟んで米中ソに囲まれた日本が取るべき、長期的課題をイメージする中で生まれた着想になるからだ。従って、世界政治がめまぐるしく変転し、ソ連がロシアになり、中国が市場経済を導入して真の大躍進を遂げた50年後の今日においても、その意味は基本的に変わらないように見える。

また、その構想は、「日本外交中期目標を、中国との国交回復と、正常な外交関係の確立におく。…中国との国交回復のため、対ソ接近は、迂回的な外交アプローチなのである。」(「平和の代償」P106)とのことだ。

最近、ウラジオストクで開かれた「東方経済フォーラム」において、安部首相が「重要な隣国の日ロが平和条約を締結していないのは異常な事態だ」と云い、「極東でのエネルギー開発、産業振興など8項目の協力プラン」を提案し、その地を「アジア太平洋に向けた輸出の拠点として、毎年、首脳会談を開催しよう」と呼びかけたことは、日本の首脳が北方領土問題だけでなく、世界政治の中の日ロの位置づけを真剣に考え始めたとの印象をプーチン大統領に与えたようだ。

一方、プーチン大統領は端的に、「互いに歩み寄ろう」と述べた。
平和条約の締結後、色丹島と歯舞群島を引き渡すとした1956年「日ソ共同宣言」を重視することの確認である。しかし、引き渡しの条件や島の主権について検討する可能性を示唆し、無条件引渡しはないことを宣言したことが目新しい。

日ソ共同宣言は、1956/10/9に日本とソ連がモスクワで署名し、12/12に発効した外交文書(条約)である。これにより両国の国交が回復、関係も正常化したが、国境確定問題は先送りされた。その後、この日ソ共同宣言は、1993年のボリス・エリツィン、2000年のプーチン両大統領が来日時に有効が確認され、2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」でも法的有効性が文書で確認された。

以上をまとめると、主として日本が経済協力することは、安倍首相が思い切って風呂敷を広げた処だ。領土問題に関しては、日ソ共同宣言をベースにすることは何度目かの再確認に過ぎない。そこから平和条約に進む道は、プーチン大統領によって、無条件でないことが明確にされた。経済のボールを投げた安部首相に、領土のボールが投げ返されたことになる。

風呂敷の中身を頂く一方、宿題を包んで返されたという処か。安部首相が本気であれば重い宿題とは考えられないが…。尖閣諸島の領有権を棚上げにしたまま日中友好平和条約を締結したことを如何なる意識で「歴史の教訓」とするのか、日本が試されるときでもある。

     

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